サーンキヤ学派とグノーシス

全体図および関連概念


サーンキヤ哲学

プロティノスの友人のグノーシス主義とサーンキヤ学派の哲学との連関の定量的推定、を行うためには、サーンキヤ学派の考え方を知らなければ、話が進まない。そこで「ヨーガとサーンキヤの思想、中村元選集[決定版]、第24巻」と「世界の名著1 バラモン教典 原始仏教、古典サーンキヤ体系概説、服部正明」を併せて読んで、サーンキヤ学派の主張を中村元の解説をベースにマッピングしてみた。どちらの書籍も基本的には、4~5世紀ころに、イーシュヴァラクリシュナによって執筆された『サーンキヤ詩』の訳あるいはこれに対する説明もしくは注釈である。

サーンキヤ学派

サーンキヤとヨーガ

古典サーンキヤ哲学(2014.5.6~)

Menandros
Μενανδρου
ミリンダ王
(155-B.C.130)

『サーンキヤ詩』は72句から構成されていて、それぞれの句は短いものであるのであるが、『サーンキヤ詩』に対する注釈書の内容の取り上げ方により、中村元と服部正明の句の解説の仕方に微妙な違いがある。どちらかと云えば、中村元の説明がインド哲学全体をふまえた上で、著者の考え方が反映されているのに対し、服部正明の訳は、注釈書の内容をできるだけ首尾一貫するように取り上げているように見える。

イーシュヴァラクリシュナの論は、プロティノスの活動した時期から、100〜200年程度後の時代であるが、サーンキヤ哲学の始祖とされる、カピラがBC300年前後という説があるから、少なくとも、プロティノスの時代にサーンキヤ学派の哲人が居たことは、間違いないであろうから、「サーンキヤ詩」の内容とプロティノス時代のサーンキヤ学派の考え方との間に、大きな違いはないものと仮定しても大きな矛盾は生じないであろう。さて、サーンキヤ学派はWikipediaの説明によれば、『サーンキヤ学派(Sāṃkhya)とは、精神原理プルシャと物質原理プラクリティを分ける二元論を唱えるものである。シャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。サーンキヤは「数え上げる」という意味なので、数論派、数論学派ともいう』なのであるが、二元を構成する精神原理と物質原理が対立している、あるいは対称的である、というようには云えないと思われる。

確かにサーンキヤ学説は二元論であるとは云えるが、『サーンキヤ詩』マッピングしていくと分るように、その二元が対等の立場にあるとは考え難い。『これ[知識]によって、[舞踏の]観客のように寛いで座っている精神原理は、[根源的思惟機能・自我意識などの諸原理を]生み出すことを停止し、目的の力によって、七つの状態から離れた原質を眺める』(SK.,65)、『一方のもの[観客である精神原理]は、「わたしはすでに見た」といって無関心になり、他方[舞妓である原質]は、「私はすでに見てもらった」といって止める。[すでに精神原理の目的は達せられているので]両者が結合しても[これからさらに世界]創造の動機は存在しない』(SK.,66)とある。このように、最終到達点として設定されている解脱の様子を述べていて、確かに、プルシャはプラクリティを見ることにより影響は受けるのであるが、輪廻を巡る実体は「舞う」方のプリクラティ(原質)であるように思われるのだ。

繰り返せば、精神原理であるプルシャが男性名詞で、世界の原質であるプリクラティが女性名詞であることを念頭にいれると、我々が輪廻のただ中にあって、精神原理プルシャに「見られつつ」あるゆえに、プラクリティは輪廻という「舞踏を踊って」、その身体の周りに世界を作り続けているのであると、「サーンキヤ詩」が述べていることが分る。

さらにサーンキヤ学派の特徴は、多数の精神原理すなわちプルシャがそれぞれ、物質の原理である原質(プラクリティ)観照することを起因として、プラクリティが自らを開展させるところにある。かつ、最初に原質から開展されるのが思惟と自我を経た五つの微細要素である、音・触感・色・味・香であって、この感覚がさらにそれぞれ開展して、世界を作り出す五元素である、空・風・火・水・地に変化するところにある。つまり、物質の元素である、空・風・火・水・地が最初にありきではなくて、世界を創造するのは、自我が生み出した音・触感・色・味・香であって、世界は多数のプルシャに見られた原質がそれぞれのプルシャに対応した思惟から作られるという点にある。初原物質であるプラクリティから展開された物質的な器官である感覚が、世界を自分の周りに作りあげるのである。であるから、その世界はプリクラティが、器官に過ぎない自己の自我意識を、精神原理に近い何ものかであると、誤想することに始まって、それゆえに輪廻に留まるのである。

精神原理によって見られている原質とその開展により生成された器官が、『わたしは[しかじかで]ある、[しかじかは]わたしのものではある、[しかじかは]わたしである』、という、精神原理とわたしは同等であるという、自らに対する誤解により世界が廻るというイメージは、現代における生物学的人間の精神は基本的には脳細胞の間の刺激交換に過ぎないという概念と一致する。また、世界を最終的に認識するのは自己であるとも言えるから、自己の感覚でもある五つの微細要素が先に在り、これに従って世界が構成されるとも云い得るのであり、それゆえにサーンキヤ学派の主張が荒唐無稽なものであるという判断を行うことはできないのである。

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