プロティノスと新プラトン主義

全体図および関連概念


はじめに

もちろんプロティノス(Πλωτῖνος :205 - 270)自身はプラトンやアリストテレスを引いて解釈し説明しているのであって、自身がネオ・プラトニズムという流れを打立てたなどと考えていないのは一読すればわかる。むしろ、プロティノス(205-270)がアレクサンドレイアのアンモニオス・サッカスの弟子で同門にオリゲネス(185-254)が居て、プロティノスの愛弟子が、プロティノスの論を取りまとめ、さらに『エイサゴーゲー』(Εἰσαγωγήつまりアリストテレスの『範疇論』手引き)を著したポルフュリオス(234-305)となれば、キリスト教神学における、プロティノスの位置づけがどれほどのものかが分る(やっと分ったとも言える)。日本語でプロティノスが読めるとは、これは確かに日本に生まれて良かったと思われる事例であるな。

ただし、プロティノス全集の日本語訳は、日本の哲学徒により行われているので、そこにはキリスト教の観点が全くと云って良い程入っていない。ギリシア教父の代表であるオリゲネスを同輩に持つプロティノスが、キリスト教について深い理解を持っていない筈がないので、訳文を読むにあたっては注意しなければならない点だ。

あえて個人的な感想を述べれば、プロティノスの世界の相対的な把握、すなわち人類の世界における位置づけが最良のものでもなく最悪のものでもないが、それでも美しい制作物であるとする考えが、結局ローマの衰退とともに、後世の人間の考え、すなわち人間が神によって作られた故に、神の僕ではあると同時に他の地上のものよりも優越する、という絶対的考えに、退けられてしまったのは、残念なことではある。もし、ローマ時代に、望遠鏡や顕微鏡などの人間の感覚を拡大する機器が、出現していたら、そして、この世は確率的な存在であるという理解の基盤となる確率論が、数学において出現していたら、とは、たられば論としては実に魅力的であるのに。



参考文献など
1. プロティノス全集、中央公論社、1987
2. エネアデスのフランス語とギリシア語対訳
3. エネアデスの英語訳

ネオ・プラトニズム

プロティノス(2014.3.21~)

Plotinus
Plotinus
204-270

そもそもプロティノス(205-270)は、アレクサンドレイアのアンモニオス・サッカスに学び、同門にオリゲネス(185-254)がいて、キリスト教に寛容であったガリエヌス帝 (在位:253-68)の寵を受け、その弟子が「エイサゴーゲー」を著すしたポルフュリオス(232-305)である。キリスト教のバックグラウンドとしてのネオ・プラトニズムの創始者であるプロティノスの重要さは隠しようがないのだ。

ところでネオ・プラトニズムの創始者とでも言うべき(本人はそう思っていなかったらしいが)プロティノスの論を、その弟子であるポルフュリオスがとりまとめた「エネアデス」が、「プロティノス全集」(田中美知太郎監修『プロティノス全集』中央公論社、1986-88)で読めるということが分った。もしやと、通っている図書館で検索してみたら、蔵書にあることが分った。収蔵室の奥の奥に仕舞われているようで、予約して数日後に司書のところに届くらしい。これは読んでマッピングせねばならないな。

ということで、「エネアデス」をマッピングしてみた。マッピングしてみると、プロティノスが必ずしも反キリスト教的立場を取っているのではなく、むしろ、絶対者を必ずしも必要としないプラトン哲学と、絶対者を基盤の一つに置くキリスト教との融合を図っているように思われるのだ。

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新プラトン主義(2012.12.22~2013.3.18)

キリスト教の創成期にはギリシア人哲学者とギリシア哲学が重要な役割を果たしていることが論文から分る、というより、初期のキリスト教父すなわちキリスト教指導者がギリシア人あるいは指導者の著作がギリシア語で書かれているので、ギリシア文化なしにはキリスト教は成立し得なかったと言えるだろう。キリスト教徒は誰もそんなことは言わないのだが。

そもそも、ヒエロニュムスがウルガタを教皇ダマスス1世に提出したのは384年である。つまり、それ以前はギリシア語の福音書が部分的にラテン語訳されたものの、各訳書に不同があって、当然にギリシア語の書が参照されてきた訳である。また実際に西方で最初に三位一体論を述べたのがポワティエのヒラリウスとされているぐらいだから、ギリシア語とその根幹をなすギリシア哲学はローマに受け継がれていった訳である。しかしローマに受け継がれていったとは云え、皇帝ユスティニアヌス1世(527-565)がアテナイにおける哲学教授を禁止するまでは、その中心は依然としてギリシアであったということは、ローマ人にとってギリシア哲学は特別に学ぶべき学問であった訳だ。

ギリシア哲学が特別に学ぶべき学問であった故に、キリスト教が国教化される過程で、キリスト教に対抗してローマの伝統的な宗教に代わる国教として新プラトン主義が重んぜられるという流れも理解できる。哲学が宗教になり得るかという疑問に対しては、キリスト教のバックグラウンドをギリシア哲学に慣れ親しんだキリスト者が構築したのだから、新プラトン主義がプラトンの教えを背景にして国教になり得ると、皇帝ユリアヌス (361-363)が考えたのも無理はないであろう。

だが、論理を旨とする哲学と人間の信仰を旨とする宗教はどう弄ってみても別物であり、かつキリスト教がローマの国教として確立される過程をみて、ギリシア哲学に親しんでこれを捨てるにしのびなく思う集団が、新プラトン主義をキリスト教に対抗するものではなくて、キリスト教内部に持ち込もうとしたのだ、と考えるのが自然に思える。

キリスト教に対抗するのではなく、その内部に持ち込もうとしたのは、超越的な一者を設定することで世界を論理的に説明しようとする意思あるいは考え方である。意思であるから、ただ説明するだけではなく、ギリシア哲学者としての第一義である知性をこの一者に近づけるべきであるという、宗教的な運動も持ち込んだのであると理解することができよう。運動であるから、世界は、一者からの「発出」あるいは「流出」から、ヌース(神的精神)が認識する可知的世界を通り、質料により形作られる可感的世界が実現されたと考える。一者からの「発出」はこうして世界に「滞留」し、そして一者に「還帰」する。なぜ「還帰」しなければならないのかについては、未だにこれを説明する文書に出会っていないので何とも言えないのであるが、我々が可感的世界にあって、世界を人間の知性によって認識していることを知り、ギリシア哲学者の目的が最高の知性を求めることであれば、われわれの目的は完全なる善である一者と我々の知性との一致であり、それゆえに一者から「流出」した知性の不完全な模倣であるわれわれの知性は、その一致を目指して「還帰」しなければならないという理解は成り立つと思われる。

偽ディオニシオス・ アレオパギテスによれば、「発出」から「滞留」に至る過程で、完全なる善は下位へ下るにつれ模倣(上位の存在の完全性への、より下位の存在による参与を意味する「分有」である)され、模倣される過程で、模倣故の不完全さあるいは不十分さを埋めるために、様々な説明が付け加えられていく。これが肯定の道(via positiva)あるいは肯定神学である。問題は「還帰」にあたって、下位の不完全な知性であるわれわれが如何にして上位へ遡ることができるかどうかである。われわれの不完全な知性であっても、そこには幾分かの「発出」が残っている筈で、神の存在の認識の可能性はあるのだが、神の本質は、人間の認識を超越する故に、われわれの認識の手段である概念と言葉は否定されなければならない(否定神学)。そこでわれわれ自身の知性を否定しつつ「還帰」するために、一段ずつ上昇すべき段階があるとする。それが浄化(律法の位階から教会の位階への上昇)、照明(教会の位階から天上の位階への上昇)、完成 (天上の位階から神性の根源への上昇)である。各位階における上昇の方法が、魂の浄化(katharisis)と観照(theōria)であるとされているのであるが、具体的にそれが何であるかは、必ずしも明らかではなく、むしろ上昇の本質が下位にある不完全なものが上位に昇るという超越的なものであるために、明らかにする方法がないのであると言える。

これについて、偽ディオニシオス・ アレオパギテスは、われわれが「無知」によって「超存在」を知るためには、われわれは自分自身の知の限界を超えなければならない。神が知られえないということをわれわれが知るためには、われわれは自分自身の知るという働きそのものを超えなければならない。その超越が「超脱」(έκστασις)であるという。当然のごとくこの過程はわれわれの認知の範囲を超えることとなるので、言い換えればその過程は神秘主義そのものに他ならない。

このような経緯の中で新プラトン主義あるいは新プラトン的な考えがキリスト教に組み込まれて、新プラトン主義が純然たる哲学ではない故に、キリスト教に神秘主義が発生するというのも興味深い。と同時に、ギリシア哲学の本流であるアリストテレスの教えがキリスト教に馴染むことなく、ローマから排除されてペルシャ文化とこれを引き継ぐイスラム文化に流れ込み、大分の時間が経ってからルネサンスとともに再評価されたのだと考えることができる。結局、我々人類はギリシア哲学を超えることができなかったのではないかという思いも沸々と湧き上がるのである。

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