もう去年となってしまったが、月日の経つの早いもの、去年の夏に黒澤さんの座長公演を観た。Twitterに「ストーリーが分かり辛い、途中でインド映画のようにダンスと歌にしてしまえばよいのではないか」と呟いた所為ではなかろうが、早くも二作目で、演題もメタル桃太郎、ということで、見に行かずばなるまい。前回のチケットの申し込みではあたふたしてしまったので、今回は落ち着いて、初日と千秋楽のしかもS席をゲットしたのだ。
指折り数えてみると、黒澤さんの二年生の時の歌の考古学、三年生で感銘を受けた、同じく歌の考古学、バレンタインライブ、放課後アンソロジー、卒業公演と、黒澤さんの出ている舞台は、TIFを除いて、ほぼ全部、観ていることになるのだな。秋桜学院は悔しくも逃してしまったが。
黒澤さんは、コメディエンヌなんかじゃなくて、蔭もあって、歌も卒業公演の直前で覚醒して、舞台には惹き付けるものがあるのだ。二回目の座長公演でもあり、もう堂々たるものなのだ。
自分には見えなかったが、涙をぽたぽたと落とした、別れのシーンでは、胸に迫る演技をしたのだ。生バンドの音に負けない声量で、歌って、存在感を客席に見せつけたのだった。舞台は平場になっていて、初日は最前列に座って、目の前を走り回る黒澤さんを見たのだ。こっちの眼を覗き込むような仕草はしなかったが、その眼の隅に、映ったのは確かだった。
千秋楽の舞台は初日とは少し変更されていたが、アドリブを効かすところは、流石なのだ。カーテンコールで、黒澤さんも嬉しかったのだろう。舞台の企画段階の話も紹介してくれて、メタルは聞いたことがなかったので、先輩の歌で練習しました、と話したところで、メイトがすかさず合いの手を入れたので、アカペラで紅月を歌ったのだった。
黒澤さんは、卒業してからも余り背丈は伸びていないようなので、舞台の役者として大成していくのだと思われる。でも、もう少し大きくなるように、これからもあの胸に迫る演技を思い出す度に、願うことにするよ。
(2018/1/8)
今回の講師は、作家で、実は父兄なのだが、そこはそれ、父兄感全開では拙いだろうということで、講師はメンバーを知らないふりをして、授業を進めるのであった。が、父兄感はそちこちに滲みでてくるので、森センセがフォローするという授業であった。
公開授業は、まるっきり父兄目線の授業参観なので、講師と森センセが話をしている間に、時々、学院生が、よそ見をするというのを見つけて、父兄はにっこりするのだった。
(2018/1/13)
今日は休日だった。twitterのTLに、岡崎さんが出演中のミュージカル「黒執事」の千秋楽公演の、ライブビューイングの席がまだ余っている、との情報が流れてきて、それならばとネットで二子玉川の映画館をチェックしたなら、前の二列程が確かに空いていて、これをポチった。このミュージカル、原作は長編漫画で、アニメ化され、ミュージカルに仕立てたのが、「生黒執事」なので、ライブビューイングは「半生黒執事」なのだそうだ。
いちいち、設定が面倒なこのミュージカル、ライブビューイングの観客もほぼ女性で、かつ岡崎さんのことを褒めている声は、耳にしたが、さくら学院のことは知らないようだ。他からも同じような情報を得たが、黒執事ファンが主体であるらしい。
さて、舞台は30人程も出演する大掛かりなもので、濃いファンがこれを支えているのが、分かる。が、出演者は観客に合わせた演技をしていて、年寄りからすると、ムカつく若造であったのは、間違いない。逆に言えば、このムカつく具合が好まれることを理解しなければ、このファン層は理解できないとも言える。
岡崎エリザベス百々子さんについては、全くの父兄目線で言えば、ミュージカルの主役そのものであって素晴らしかった。
(2018/2/12)
2017年度のさくら学院も、ついこの前に三年生になったと思ったら、もう卒業の話になって、なんて切ないのだろう。
というわけで、出来るだけライブに行くというスタンスで、今回は見事に昼公演と夜公演の二回分のチケットを当てたのだが、700番台と800番台で、venueの最後尾とならざるを得ないのだ。しかし、ソールドアウトの公演のチケットが当たっただけでも有り難いと思わなくてはいけないのだ。で、昼公演は下手の後ろ、夜公演は上手のさらに後尾の場所に落ち着いた。
でも、いきなり卒業曲そのものの「My Graduation Toss」をぶつけてきたりするので、エモーショナルなことこの上ないので、舞台から遠くだからといって、ぼんやりとしている暇はないのだ。
ついこの前に入ったばかりの小学五年がしっかりしてきたり、ついこの前に中学生になったばかりの4人が、全体を支えるパフォーマンスをしたりで、パフォーマンスそのものと、この先と、これまでの事が全部一緒に見たり思い出したりする舞台になっていて、父兄の想いも忙しいのだ。
自分はどちらかと言えば、眼で見るより耳に入って来る声に反応するようで、中二の歌声が心に刺さってきて、思わず目頭が熱くなったりするので、昼夜公演を、遠くから見守るライブとは言え、この場に居合わせることができて、本当に良かったと、帰りの電車で、このエモーショナルなひと時を反芻するのだった。
今回のライブでは、カバー曲が披露されるのだが、中にフィンガーファイブの曲があって、「ダイヤルを回す…」なんて歌詞のある、一体いつの、いやそれより、よくこれを知っているスタッフが居たね、と思われるくらいの昔の曲が入っていて、昔過ぎて、家に戻ってから、自分が中学生だった頃の記憶に残っている曲が思い出された。
YouTubeで、生まれ育った炭坑街で慣れ親しんだ、思い出の曲である「赤旗の歌」とか「インターナショナル」などを聞くと、中学生を振り回した、ルサンチマンにまみれた、日教組北朝鮮賛美派の教師を思い出してしまって、心に、忘れていた怒りの火が、また灯ったのだった。
(2018/2/17)
公開授業「歌の考古学」も最初は、アイドル活動の一環だった筈なのに、段々とリアルな方向へと変化していて、今やリアルな学院生が、個人研究を発表するという、高度な場になってしまったのだ。なので、父兄と呼ばれるドルオタは、チケット代とも呼ばれる学費を払い続けるのだ。
今回は第一部だけチケットが当選して、第二部は落選したのだったが、実は、自分が舞台で歌う、内幸町のシャンソンコンサートと、ガチンコでバッティングしてしまっていたのだ。ただし、実に運良く、第一部であれば、夕方から始まるシャンソンとはぶつからずに済んだのだった。しかし、シャンソンのゲネプロとは、舞台の終了時間が見えないので、最悪の場合はゲネプロに参加できないかも知れない、という、実にアイドル側に振った定年後生活なのだ。
で、解説しておくと、公開授業とは、さくら学院の学院生が受ける授業を、公開する、という演出の一つなのであるが、なかでも、歌の考古学は、学院の校長が指導するという演出で、学院生が各自で、自分の知らなかった生まれる前の歌を発掘し、それについて調査した結果をプレゼンし、さらにその後、アカペラで歌う、という高度なライブの授業なのである。
この公開授業も、演出であったのが、いつの間にかリアル化して、歌って踊るアイドルではなくて、さくら学院生が、自分で調査した結果を取りまとめて、プレゼン資料を自分で作って、自分で発表するという、何か他に類を見ないものすごいものになりつつある、リアルなさくら学院の、リアルな生徒が、リアルに発表するという、場になっているのだ。学院生は、代々と言えるような卒業生から伝えられてきた、何かを、更に自己発展させているのだ。
という訳で、毎年そうであったように、今年も、とてつもないエモーショナルな、公開授業であったのだ。緊張のあまり、アカペラが途中で止まってしまった、リアルな学院生を、ただひたすら息を殺して、また歌い始めるのを見守るという、ライブであったのだ。
で、予想していたより早くライブは終わって、ゲネプロにも間に合ったのであるが、その後、内幸町の自分のライブが終わった後に、リリー先生から、「気が抜けちゃってたよ、アイドルに取られちゃったんじゃないの」と言われてしまったのだ。
(2018/3/5)
さくら学院の卒業式まで後四日、以前は、最後の公演という跳び箱を飛び越えるための、ロイター板のような位置づけだったが、このところ、院生には、公演の直前の弛みなどはなくなってしまって、こんなに緊張が続いて大丈夫なのか、と思う程なのである。
そういうわけで、卒業式直前の最後の公演は、なんとなく、卒業生の気持ちをフィックスするという、位置づけを、次第に帯びるようになったようで、アンコールの最後に、三人の卒業生がそれぞれ、自分が考えて決めた進路を、自ら述べるのである。中学三年生は子供の筈なのに、子供ではないし、未熟な大人でもないアイドルは、暗闇のオタに向けて、自分の意志を自ら懸命に語ろうとするのだ。だから、そんな重圧を受け止めて、照明に浮かぶ三人の青白い顔は、緊張の所為ではなく、自らの内に燃える青白い炎が照らしているからだ、と見えたのである。
しかし、三人の意志の力は、辛うじて未来への不安を上回っているだけなので、それぞれの決意を述べるための、言葉を探しつつ、辿々しくなったり、あるいは、選ぶことができなくなって、何秒も次の言葉を探したり、その不安が垣間見えたのだった。
もうそんなに真面目にやらなくても、良いんじゃないか、もっと楽にやっても良いんじゃないかという、大学も卒業するころになってから、教授に言われた通りに適当に人生を決めるような人間が、呟く想いとは、既にかけ離れた場所にいる三人なのだし、それぞれに、普通ではあり得ないような努力と、それに相応しい実績も既に積んでいる、アイドルなのだ。
そんな三人を脇から支える、今年から三人なしで活動をする自覚を持った院生が、そんな三人を熱い視線で見送るという、舞台であり、それを見ながら、拳を握りしめて、その不安を少しでも分かち合いたいと願う父兄が作った、舞台だった。
(2018/3/20)
この日が来てしまった。去年、最上級生になったばかりの三年生だったのに、もう卒業してしまう、という最後のライブなのである。アイドルの物語というファンタジーが、リアル化して、会場の中野サンプラザの入り口前の広場は、スーツのおっさんに満たされていたのだ。なぜスーツかと言えば卒業式だからで、父兄は卒業式を参観するのだ。数年前はスーツはシャレであったのに、リアル化したさくら学院の卒業式で、スーツ姿は全く普通になってしまったのである。当方と言えば、スーツはタンスを掘り起こさねば見つからないので、ジャケットにしたのである。
スーツのオタに交じって、会場に入った。A席なのに舞台から遠いな、学院生の顔がやっと区別できる位だ。もっと前の席に当たっていたら、もっと良く見えたのに、貴賓席だったらもっと近くで観れたのに、と欲は尽きないのだ。だが、二階席のB席どころか、チケットが当たらずに恨みの涙を飲んだ可能性も高かったことを考えると。思わず首を振って、チケットをゲットした時の喜びを思いだすべきライブなのだ。
二十曲にも及ぶ最長にして、卒業生にとっての最後のライブとは、父兄が、推しの名を叫び、手を叩き、腕を振り上げて、ただひたすら、学院生が客席に向かって発する光の粒子と、彼らが作る熱い空気の振動を、浴びるライブなのだ。その全てを眼に焼き付けることはできず、その一場面は砂のように流れ去り、その歌声は印象でしか残らないのは、知っている。だが、学院生の姿と歌声と、学院生MCの声が、確かに私を通り過ぎたことは、覚えている。
だがフィナーレに向かって、畳み掛けてくる、学院生の歌声と踊る姿は、私の古びた頬を涙で濡らしはするのに、その歌声をダンスの影を、とどめることも、既に出来ないのだ。
そして卒業式となるのだ。在校生代表が送辞として、卒業生との舞台と練習と交流の思い出を述べるのであるが、いくら耐えていても、二年生は言葉に詰まるのだ。泣くとパフォーマンスが下がってしまうから、決して泣かないというのは、さくら学院の中で、卒業生から在校生へと伝えられてきた振る舞いなのだ。
しかし、最後の最後、在校生の一人一人が卒業してしまう学院生へのはなむけを話す時、小学生は、こみ上げるものを抑えることはできずに泣きじゃくり、一年生は、必死に涌き上がる感情を抑えて、感謝を述べ、二年生は自分たちが、卒業生を引き継ぐものである自覚に震えるのだ。そして、卒業生は、全てをやり遂げたという、暖かな心を広げて、しゃくりあげる在校生をそれでもって包むのである。
存在することも知らなかったエモーショナルな心のやり取りを、目の当たりにする卒業ライブであった。チケットが当選して良かった。
(2018/3/24)
p.s.
で、薄れゆく記憶をもう一度なぞって、あるいは上書きするために、前日のライブビューイングを新宿の劇場で見たのである。夕飯を取ってぎりぎりな時間となってしまったが、劇場の椅子に着いたそのとき、画面では卒業式ライブの、始まりの鐘が鳴ったのである。
カメラを通した昨日のライブ映像は、昨日のはるか遠くの席からとは違って、舞台がアップされる。学院生の赤くなってしまった眼に、隠しきれない涙が見える。昨日の記憶と画面が合体して、そのエモーショナルさの値は、極限まで引き上げられたのだ。昨日の現実を映した幻影に、さらにのめり込んでしまうだ。
たまたま、今日、さくら学院生のインタビュー記事がたっぷりと載った、アイドル雑誌が届いて眼を通しておいた。昨日のライブではよく分からなかった、卒業生の言葉の意味を知ることも、また、できたのだった。アイドルは尊いのだ。
(2018/3/25)
2017年の12月の広島の生誕祭のライブビューイングの新宿の映画館の話なのだ。知り合いの話によると、ライブビューイングなのにチケットが取れなかったそうなので、新宿ピカデリーの二つのスクリーンを使っても客席が一杯とは、広島まで出掛けたメイトはさすがに少なかったらしい。
それにしても、上映開始が0時ということで、終映後の事は知らないが、自分がファン以上の者であることを、メイトは、その困難に打ち克つだけの忠誠心を以て、示さねばならない、というライブビューイングなのだ。新宿で終映後、始発までどう過ごそうか。友人同士の若者であればいくらでも時間を潰せるだろうが、孤独な老人に行く場所は、なかなか見当たらないのだ。
ということで、バイクで出掛けて、サブナードの地下駐車場に駐輪することにした。通常に駐輪するのでは割高なのだが、割引で8時間まで¥1000というのがあったので、帰りの深夜の道を、半分眠ったような状態で走るのも、躊躇われたのであるが、そういうことも有って良いだろうということで、22時近くになってから出掛けたのである。
生誕祭をライブビューイングで改めて観て、藤岡さんがもうこの世の人でないことを、突きつけられたのだ。もういないギタリストと、二十歳になったSU様と、MOA-METAL独りの頑張りとを観て、運命というものがあったなら、それは、なんと人を弄ぶものであろうか、人が辿っている自分の世界線を、如何に自覚なしに歩んでいるということを、後になってから突きつけて、運命は何故に、こうも人を嘲笑うのであろうか。
終映して、観客が春めいた真夜中に放り出されたのが2時過ぎで、工事規制だらけの渋谷を抜けて、帰り着いたのが3時前だったので、バイクで出掛けたのは正解だった。
(2018/4/1)
なぜこうなったかと言えば、BABYMETALのメギツネを、石川綾子がカバーしたのをYouTubeで見つけて、それから石川綾子のバイオリンに嵌っていったのだ。選ばれている曲を一目見れば、分かるが、従来の業界の演奏家とは全く違っていて、自分の好きな曲を好きなように弾くのが好きな、バイオリン大好きのバイオリニストであるのだ。だからボカロとアニメと歌謡曲とクラッシックが同列に並んでいて、確かにこれでは、日本のクラシック音楽界には、メンバーとして入れてもらえないであろう。
驚くべきテクニックで、永住権を授与されているオーストラリアでは、デビルアヤコと呼ばれているというが、さもありなん。バイオリンそのものが、人間の楽器というより悪魔が持つに相応しい楽器の上に、そのテクニックをもってバイオリンが唄う様子は、本当に悪魔と何らかの契約をしていてもおかしくない、と思う程なのだ(このあたりは、あくまで(悪魔で)執事の話という、この前ライブビューイングでみた黒執事の影響がみてとれるな)。なので、楽器として弾くのではなくて、楽器を通して唄っているような演奏なので、ますます従来のバイオリニストとは違うのだ。
会場は紀尾井ホールであったが、物販にサイリウムと振り回すためのタオルがあって、躊躇無く購入した。所定の金額を超えたので、後で本人からサイン入り写真を手渡しされるチケットももらった。
席は残念ながら二階の一番遠い場所で、紀尾井町のPAも殆ど生音しか聞こえさせないような設定になっていたので、音量が小さかったのは仕方がない。だが、その滑らかな音は十分に二階席まで届いたのだった。
オタから見るに、石川氏からはオタの雰囲気がプンプン匂っていて、わざわざ、物販のタオルは、本日タオル回しやります!!というチラシと一緒に売っているし、十数色も発光できるような名前入りサイリウムも売っているのだ。当然、両方を購入したのだ。
せっかくサイリウムがあるのに、客席でこれを振ったのは、自分ともう一人二人位で、少し寂しいライブ、ではないコンサートだったのだ。タオル回しも演者が、アンコールで促して始まったし、コール&レスポンスして欲しい気が満々なのに、客席は、クラシック音楽会の観客そのものなので、実に静かなのだ。
ということで、これからは、石川綾子の望むようなノリノリのライブになるように、引き続き参加してサイリウムとタオルを振り回すことを決意したのだった。帰り際に、列に並んで、本人からサイン入り写真を手渡されて嬉しかったのだ。
(2018/4/6)
石川綾子のツイッターをフォローし始めたのだが、昨日、成城学園駅の複合施設で、販促のミニライブやります、とのツイートが入って。これは行かずばなるまい、いや絶対に行かなくては、と自称ファンは、頼まれもしないのに盛り上がったのだ。
休日だったので、家人も誘って。ここ暫くは石川綾子をiPhone->Boseで流しっぱなしであったためか、行くと即答したので、何の問題もなくやってきたのだ。オタクのライブ経験が生きているので、ライブ始まりの一時間前には、会場の施設二階デッキに到着して、数十もないパイプ椅子の最前列をゲットできたのだった。まだ石川綾子は知られていないので、余裕だったのだ。
前回ライブで買っておいたタオルを、忘れずに持って行ったので、本人登場の時にはタオルを掲げて、オタクらしく振る舞ったので、目が合った、気がした。演奏が始まるとデビアヤの太い低音に対処できなかったPAの不手際でハウリングを起こしたりしていたが、素晴らしい出来であったので大いに満足した。販促のライブなので、当然、CDを購入したが、またもサイン会の握手会付きで、石川綾子はサービス精神旺盛なのだ。だが、クライマックスは次に控えていた。
サイン会は、一人ずつ相対して、サインを貰った上、言葉を交わせるのであるが、「さくら学院もカバーして欲しいのですが?」、「あ、さくら学院?私も大好きなんです!」の御言葉を頂いたのだった。やっぱり、石川綾子は真性のオタクであって、ここでラインは繋がったのだった。嬉しい。実に嬉しい。
実はこのライブは二回あったので、一回目が終わってから、昼ご飯をとり、すぐさま二回目のライブに向かったのだ、今回は最後部に、とはいっても舞台からほんの少し後ろであるだけなのだが、オタクらしく控えて、だが、舞台登場の時には忘れずに、タオルを掲げたのだった。
応援の甲斐が、あったか、二回目はさらに演奏に気合いが入っていて、セットリストも最初の曲以外は別の曲が入っていて、流れる涙を大事なタオルで拭いつつ聴き入ったのだった。ピアソラのタンゴがあったのも実に、自分好みだった。
今日は全てが順調で明るく、しかも、さくら学院と石川綾子が繋がるという、予想通りの展開で、実に満足したのだった。なぜこうも良かったのかというと、出掛ける前に近くの交差点で倒れた男性を介抱する人を見かけて、声を掛けた上で救急車の手配をしたという、善行が報われたのかも知れない。一日一善。
(2018/4/15)
人間椅子のギター担当の和嶋さんのソロは、恰好良いので、手を上に上げてソロの間中、拍手することにしている。今回のライブは、2017年度ツアーのファイナルということで、思い出せば、去年の渋谷もツアーファイナルだった気がするな。
人間椅子の演奏は、もちろんバリバリなのであるが、自分が推している他のグループと大きく違うところがあって、それは、全然エモーショナルではないことだ。何故かと言えば、メンバー三人ともオッサンだからだな。もしかしたらもう見ることができないのかも知れない、という切迫感がないので、安心して見ることができるのだ。
会場に入った客も適度な混み具合なので、前の客の頭の隙間から見なければならないこともないし、第一に、音が聞こえてさえいれば良いので、和嶋さんと鈴木さんのギタープレイが遠くからでも確認できれば良くて、わざわざおっさんの顔を間近でみる必要もないのだ。
人間椅子を最初に観たのが、幕張のオズフェスで、指折り数えると、割と良く観ていることになる。いつも適当なTシャツでライブに参加するので、今回は初めて、人間椅子のTシャツを買った。これで、次回からは肩身の狭い思いはしなくて済むのである。
(2018/4/27)
中野サンプラザでヘッドホン祭りと称して、内外のヘッドホンメーカーの製品を一堂に展示する催しがあって、これに関連づけて石川綾子のライブがあるという情報がツイッターで流れてきて、すぐに予定を入れた。
ヘッドホンと石川綾子がどう関連づけられるのかと言うと、次回の石川綾子のライブで、バックの音楽トラックを流しながら演奏する石川綾子のバイオリンを、ラインに拾って、これと音楽トラックをミックスして、観客に装着させたヘッドホンに流し、観客は石川綾子の演奏を見ながら、ヘッドホンでその音を聞くという、はやりのハイレゾの売り込みとタイアップするという予定があるのだという。
回りくどい話はどうでもよくて、今回の会場は中野サンプラザの結婚式場のための、チャペルで演奏するというので、石川さんも喜んでいたのだ。バージンロードも歩きながら演奏したのだ。
ライブ入場は只という販促の一環なのだが、CD購入者には、優先入場整理券が配られてるいうシステムなので、もちろんなんの迷いもなく、直ちにCD+DVDを購入したのだ。
セットリストは短いものだったが、途中に石川綾子自作曲の演奏があって、石川綾子の自作曲はよくある演奏家の自作曲とは違って聞き応えがあるのだ、曲のその最初のボウイングで、さくら学院が好き過ぎて、バカになった涙腺から、涙が溢れ出したのである。もちろん、この前のライブで購入した名前入りタオルは持参したので、役立ったのだ。
当然のごとくこのタオルは大活躍で、30番の入場整理券で入った会場では前から4列目で、石川綾子登場の時にはタオルを両手で掲げて、アピールしておいたのだ。これが後で役立ったのだ。
で、手元のタオルを握りしめながら聞いた、自作曲、誓い?が余りに素晴らしかったので、ブラボーも飛ばしたのだ、賛同してくれたファンがもう一人居たな。
ミニライブなので、すぐに終わってしまったが、優先入場券はサイン会参加券も兼ねていたので、前回に引き続いて並んだのだ。自分の番になって、CDにサインしてもらいながら、タオルを挙げてくださって嬉しかったですとの、御言葉を頂いて、石川綾子さんに認識されたことを確認したのだ。そこでしつこいとは思ったが、さくら学院のカバーのお願いも念押ししてしまったのだ。
くどい程の濃い一日で良かった。ところで、会場のヘッドホンも少し試聴してみた。オーディオテクニカのブースで試聴して、これはどのジャンルをターゲットにしているのか、と係員に聞いてみたら、クラシックとジャズですね、との答えがあって、ボーズ愛用の、メタルとアイドルしか聴かない自分とは、大分に距離があった。
(2018/4/29)
さくら学院のチケットはますます取り難くなっていて、さくら学院の年間三大イベントの一つである転入式も、そこから外れない、ので、仮令、二階の端であろうと、落選した父兄の心中を思うと、このチケットを手にしたことは、実に有り難いことなのだ。
今回の会場となった中野大ホールだが、席の間隔もゆったり取られているし、天井も高いので、なかなか見やすいヴニュなのだ。とは言っても、そこは二階席、肉眼では表情までは見えないので、フラッグと一緒に、双眼鏡も忘れずに持参したのだ。ところで、この双眼鏡、以前の落として光軸のずれてしまって、買い替えを余儀なくされた、ものよりは倍率を少し高くしたので、やはりその分、調整し辛いところがあるな。
さて、始まりました今年も転入式。去年は山出さんが、生徒会長になるのが順当だが、もし違ったらどうなるのだろうかと、客席が固唾を飲むような舞台だったが、今年は、流石にそれ程の緊張感はないし、転入生の加わる前の9人のパフォーマンスは素晴らしいもので、特に、3人の最上級生のダンスは、見応えがあったのだ。
で、転入生は中学1年生が二人、小5が一人で、過不足なく、12人が揃ったので、今の小6が卒業するまでの4年間は、余計な心配をする必要もなくなって、こっちの寿命の方が先に尽きることも考え合わせると、大きな安心(あんじん)を得たのだ。
転入生が加わった後に、生徒総会があって、校長から生徒会長が告げられる。大方の予想を裏切って、8代目生徒会長は、新谷さんとなったのだが、運営側の考えのあってのことだろうから、父兄がどうこういう筋合いではないのだ。だが、会長候補の呼び声高かった麻生さんが、自分がなるかも知れないという予想に反した指名で、思わず涙を流したことに、父兄は深く同調して、別の役で指名された麻生さんに、惜しみなく、なかなか終わらない拍手を送ったのだ。
人事に五月蝿い父兄は、もやもやしたものを抱えて、その後の舞台を観たのであるが、最後の曲、「明日に向かって」で、麻生さんが、今までにない程に声を張って、自分で自分のもやもやを晴らしたことを、会場に示したので、ぐずぐずな父兄は、本人の決断の意思の強さに、逆に励まされたのである。立派な女子中学生であることよ。
(2018/5/6)
p.s.
父兄はしつこく応援するので、転入式から四日遅れのライブビューイングを観に、映画館まで足を運ぶのだ。いつもの新宿の映画館は、またもや最後尾の席で、いつもの外れぎりぎりの席なのだが、まあ良いとしよう。現場の臨場感には欠けるけれども、会場では聞き取れなかった学院生の発言とか、ツイッターで流れてきた、誰があの時どうした、などの細かい話の場面を再確認するためには、よいかも知れない。
涙腺はバカになっているので、同じ場面で袖で拭ったりしたり、ライブビューイングといえども、思い出になってしまった場面をもう一度観るのは、捨て難いものなのだ。ただし、ピンクのフラッグを振ったり、大きな声で声援を送ったり、届けとばかりに大きな拍手をすることはないので、残念ではある。その代わり、小さな拍手を、過去の舞台に送ったのだ。
(2018/5/10)
趣旨がよく分からないままに申し込んだライブだったが、会場であれこれ説明を受けて、納得した。
日本にはヘッドホン業界というものがあって、海外のブランドも交えて、もう飽和しているのだが、ここに、ハイレゾ(ハイレゾリューション)と称して、サンプリング周波数を今までより高くした、というのを他との差別要因として、デジタル録音したコンテンツの再生システムを売り込もうという動きがあって、その業界ビジネスに呼ばれた形で、石川綾子が演奏する、というライブであったのだ。
具体的には、別の石川綾子ライブで、ハイレゾ録音した音源から、バイオリンを抜き取っておいて、このカラオケを流しながら、バイオリンを演奏して、バイオリンの音をマイクで拾い、これをカラオケとミックスさせて、アナログの状態でヘッドホンを装着した観客に流す、という何をしたいのか分からないが、本来は、ハイレゾ録音が素晴らしいということをアピールする場として計画したものらしい。
このライブ、手持ちのBOSE QC-3を持ち込もうと思っていたら、十年も使い続けているQC-3に不調があって、これはちょっと、ということで、最新型のBOSE QC35IIを急遽買い込んで臨んだライブだったのだ。
で、どうだったかと言えば、趣旨から言えば、石川綾子の演奏の様子を見ながら、ヘッドホンを通して、その演奏を聴く、が本筋なのだが、演奏中に、ヘッドホンをずらして、直接のバイオリンの音を聴けば、圧倒的に直接聴いた方が良くて、一応は趣旨を尊重してヘッドホンを頭から外さなかったけれど、その分、感動が薄れてしまった、というライブだったのだ。
BOSEは本家本元のノイズキャンセラーヘッドホンなので、カラオケに入り込んでいるバックグラウンドノイズもよく聞こえて、ハイレゾどころではなかったのだ。逆にヘッドホンなしで演奏を聴くと、会場のエアコンのノイズはあったとしても、ヘッドホンを通して聴いた音とは段違いなのだった。
やけに日本語の上手な、国籍不明のサウンドエンジニアは、ホール演奏の時のカラオケに合わせて、マイクで拾ったバイオリンの音にリバーブをかけて、ホールの残響を再現したり、バイオリンの音圧に合わせて、マイクを切り替えたりした工夫の話を後でしたのだったが、この程度の技術では、石川綾子のライブ音の足下にも及ばないということを確信したライブだったのだ。
老人の耳の感度を勘案すると、ハイレゾに投資することはあるまい。録音時のノイズキャンセル技術の方が重要だろうなと思った。ところで、新しいBOSEにしたのは、タイミング的に良かったと思っているのだが、以前のBOSEも新しいものと比較しても劣る感じはしないので、少し、早まったかという気がしないでもない。
(2018/5/16)
今日のライブはボカロづくしだ。石川綾子氏、自分で言うには引きこもりで、ニコニコ動画からボカロを知るようになったのだと。で、今日は後半に、ボカロの曲を歌っているあるふぁきゅんが出て来て、少し前にTwitterのリプから知り合いになって、コラボすることになったのだと。で、お互いのエール交換が微笑ましいのだ。
で、ボカロ曲は基本打ち込みだから、ピアノとバイオリンでは少し無理があるのでは、という感じだった。でも石川綾子氏は、ムリヤリにでもノリノリにしたいので、初音ミクの消失では、自分の弓を持つ右手が攣りそうになるから、客席の皆も右手が攣る程に、サイリウムを振るように指示するのだ。
こっちは舞台上から指示されるのには慣れているので、攣りはしなかったものの、高速度でサイリウムを振ったのだった。石川綾子氏はSかも知れぬ。
ところで、石川綾子、綾子様、石川綾子氏と、呼称が一定しないのだが、今のところ、氏を付けるのが、一番ぴったりくるような気がしている。
(2018/5/25)
再会だなんて言ってみたが、勿論、こっち側の妄想なので気にしないように。FERN PLANETは奈良の在なので、なかなか東京には出てこない。前々回はたまに出て来たライブの日が、あろうことか、さくら学院のライブとバッティングしてしまって、流石にさくら学院のチケットを諦める訳には行かなかったのだ。で、昨日もライブがあったのだが、先に石川綾子のライブのチケットを取ってあって、これもバッティングしてしまったのだ。
というわけで、フェスというか、下北沢中のライブハウスが一緒になって、普段観る事もない、あるいは聞いた事もないバンドを一堂に集めて、聴く機会を作ろうという、その名もShimokitazawa SOUND CRUISINGという催しがあって、これにFERN PLANETが出ることになったので、急遽チケットを購入したと、そういう経緯なのだ。
出演は19時30分であるが、余裕をみて、一時間半前にはライブ会場のShelterに着いたのだった。下北沢には予想以上の数のライブハウスがあって、なるほど年寄りはこうして、世間からはずれていくのだなと、再確認したのだった。
で、タイムテーブルの二つ前のバンド、MintMateBoxが演奏中で、思った以上に頑張っているバンドじゃないの。一つ前のバンドが、ネクライトーキー。この調子だと狭い会場が一杯になってしまうかと思っていたら、このバンドが終了して客が引いて後、また一杯になるかと思っていた、フロアの客は直前までパラパラ状態で、YouTubeだけでは、あまり知られるようにはならないのかと。
FERN PLANETは自分たちのポリシーがあるらしいので、今までもそうだったが、余計なことは言わないようにしている。チケットを買ってライブにやって来るファンが良いファンなのだ、という事実を枉げてはいけないのだ。
演奏は手持ちのCDの曲はノレるのだが、新曲はどうして良いか分からないので、それなりに。以前のRick Rackの時の曲は演奏しなかったので残念、というのが全体の感想だ。だが、SERINAのギタープレイは、相変わらず素晴らしくて、ソロでは、腕を振り回して叫んだのだった。圧縮もない最前列同然の場所だったので、少ない客のフロアの、さらに数少ないERFIN PLANETのTを着た、一人として大いに声援を送ったのだった。後半以降、演奏に熱が入ったのは、こちらの熱が伝わったためだと信じたい、という演奏だったので、大いに満足した。
このところのSERINAは、まあ、色々と思うところがあるらしく、私たちの歌が皆の慰めになれば嬉しいなどと、さくら学院のようなMCをしたけれども、これも余計なことは言うまい、SU様と同じ歳だから、取り敢えず続けて欲しい、と切に願った、という下北沢のライブであったのだ。
(2018/5/26)
えっ、こんなところでやるん(演奏するん)ですか、と思わず山野楽器の店員に確かめたくらい、銀座の歩行者天国に面した、店の前のステージとは名ばかりの、日の当たるお立ち台で、暑さと湿気と、しょぼいPAのある場所で、心配になってしまう路上ライブだったのだ。
だが、オタとしては、こういうステージこそ、全力でサポートしなければいけないというオタ独特の思い込みで、歩道を挟んで、お立ち台から少し離れた場所に陣取ったのだ。陣取ったという言葉も情けない程の、山野楽器の店員が手持ちのトラロープで、通行人と分けただけの場所なのだ。
銀座四丁目には、三十分も前に着いたのだが、待ち受ける人も少ない日曜日の歩行者天国なので、勝手にサポートすると思い込んだオタは、待つのだ。三十分の待ちなどは、ものの数にも入らないので、わくわく感が止まらないのだ。
路上ライブが始まって、こんな悪条件で、バイオリンを弾くなどと思っていたが、綾子様は、そんなことにはめげず、自分の好きな曲を好きなように弾くので、その精神の勁さが導くエモーションに、オタは涙するのだ。キモい爺様のオタが涙するなど誰も見たくはないだろうから、老眼鏡風のUNIQLOサングラスは役に立つのだ。
オタは綾子様タオルをかざし、高く手を挙げて拍手を送ったので、綾子様の演奏も、こんな悪条件を物ともせず、熱を帯びる、とオタは思い込むのだ。
最後の曲、ピアソラのリベルタンゴは、最初の破裂音から気合いが入って、バイオリンの弓毛がどんどんと切れていくのを、綾子様は片っ端からちぎり捨てて、演奏を続けるのである。終わった瞬間にブラボーを送るのは、オタの喜びであるな。
パガニーニの24番のMVでもそうだったが、綾子様の精神の勁さは、逆境にある程現れる気がして、その勁さを間近に感じるオタ活動の喜びを改めて感じた、銀座の路上ライブだったのだ。
あまりにエモーショナルだったので、このままじゃ帰れないと、途中下車して、赤坂のバルに寄り、生ビールのジョッキと白ワインと、最後に赤ワインを流しこんだのだ。
(2018/5/27)
富ヶ谷のハクジュホールのシリーズ、今回は映画音楽ということで、ミシェル・ルグランとかヘンリー・マンシーニとか、綾子様、意外と年寄り向けの選曲をしてるな。観客は、元々クラシック愛好者が多いようで、前回のボカロだと少し方向が違ったということで、もう少しポピュラーな方向に振ったのだろうか、よく分からないが。
今回は、レリゴーで売ったMay Jをゲストに、洋画やアニメの映画音楽をピックアップしたのだが、自分の好む方向とは違うのだが、こういうのも仕方がない。アンコール前の最後の曲は、客に席から立つように呼びかけて、タオルを振らせるのであるが、客層がクラシックなので、借りて来た猫のような行儀良さで、これも仕方がない。
May Jと綾子様は、MCでエールの交換をするのであるが、二人ともお嬢様風なので、観客としては反応の仕様がない。今回、ピアノの音が大き過ぎた気がするし、May Jの声は好いのだが、これも自分の好きな方向とは違うようなので、これも仕方がない。
という訳で、自分の思うライブとは少し違ったのだが、これも仕方がないのだ。仕方がないが、アンケートには毎回と同じく、さくら学院の曲をお願いしておいたのだ。
(2018/6/22)
一週間ほども、右足の不調が続いている。ここ一週間も39度にもなろうという体温より高い熱波の日が続いている。皮膚科に行ったら、水虫菌が見つかったので、水虫薬を処方しますということで、つけて見たが、足の甲まで腫れてきて、もう一度医者に行くと、かぶれだということで、抗生物質と塗り薬ももらった。だが、それまで足の裏が痛かったのに、甲に痛みが移って、痛風発作にも似ている。
ということで、暑くて、痛くて、どうにもならないということで、家に籠り切りであったのだ。そのうちに、少しばかり腫れは引いて、歩く事もままならなかったのが、跛を引きながらも少しは歩けるようになったので、バイクに乗って、新宿のタワーレコードに向かったのだった。
なぜこの日だったのかと言えば、VDC無料マガジンがリリースされたからだ。Vocal & Dance Collection Magagineは、アイドル専門雑誌で、商雑誌並みの内容なのに、無料というビジネスモデルの見えない雑誌で、当然ながら、さくら学院のインタビュー記事が掲載されているというのが、新宿までわざわざ出掛けてでも、手に入れようという目的なのだ。
新宿駅南口のバイク駐輪場は、非常に入りづらい分だけ、駅に近くて、しかも二時間まで無料という、ベストな場所であることをこの前、確かめておいたのである。新宿のタワーレコードは、頭の上で、まずは、VDCが置かれていることを確認し、そういえば、さくら学院のフラッグのための、フラッグケースをタワーレコードが新規発売したとの情報も持っていたので、無料のVDCを貰うだけでは、申し訳ない、お、フラッグケースが新発売だということで、購入したのだ。
フラッグケースの方は見つからなくて、店員に探してもらったら、到着したばかりのようで、まだバックヤードにあったものを一つ、持って来てもらったのだ。いや、別に恥ずかしくはないな、ここまでくれば。
ということで、さくら学院のメンバー全員のインタビューの載ったVDCは好かった。さくら学院のダンスは、よく揃ったダンスということはもう目標ではなく、その上で個々の個性を見せていくのだという、アイドルレベルを超えた話が出ていて、満足し得る記事であったのだ。卒業生で購買部だった白井さんが提案して、アミューズではなく、やっとタワーレコードの手で実現した、フラッグケースも手に入れて、さらに満足を得たのだった。
フラッグケースは各色あって、さくら学院父兄なら、ピンクもありなのだが、メタルから来た父兄であるから黒を選んだのだった。そういえば、最初に見た頃のBABYMETALのライブ会場で、白や水色のTを着ている客がちらほら居るのを見て、あ、あれがさくら学院の父兄か、オタクだな、なんて若干の蔑視を投げていた自分が、すっかり父兄のオタになったのだなと、黒のフラッグケースを手に、感慨を新たにしたのだった。
(2018/6/22)
三回に分けられた公開授業を全部参観してしまうというのも、躊躇われたので、会長とパフォーマンス委員長が出る回だけにしたのだ。
公開授業は、女子中学生をいびる女性教師あるいは、シンデレラをいびる継母の態度を演じつつ、椅子の座り方、立ち姿、お辞儀の仕方、アフタヌーンティーに臨む時のマナーを教えるマナーの教師に学ぶ、厳しく指導される上級生と教師に甘やかされる小学生という、凝ったシチュエーションの授業だったので、これを参観する父兄も、このマナーの先生に指示されて「ありがとうございました」と一斉に、生徒に返礼するという、さくら学院生とその父兄ならではの、公開授業だったのだ。
普段は、父兄に甘やかされている学院生なので、怖い女性の先生に、厳しい指摘を受けて、涙目になってしまうという、父兄にとっては、複雑な心境となる授業であったのだ。
(2018/9/17)
暗転からライトが舞台を照らした瞬間、学院生もライブを待っていたのだということが分かった、父兄が待っていた以上に。転入式の後、同じアミューズのちゃおスマイルズとのコラボを挟んだものの、舞台と言える舞台がなかったから。
本来、今日のライブは昼と夜の部の二回で完結するライブで、昼のライブで夜のライブの入場優先チケットを争奪するという名目なのだ。とは言っても、少ないながらもパフォーマンスがあるのは、前回と同様であるのだ。であるのだが、今回は昼の部しかチケットを持っていないのだ。どうしてかと言えば、シャンソンの自らのライブとバッティングしたからなのである。
シャンソンの義理を果たさねばならないのだが、さくら学院を諦めることもできないことになって、悩んだのである。で、シャンソンのゲネプロをパスすることを許してもらって、さくら学院ライブ昼の部だけでもということにしたのだ。
こうして学院生の一挙手一投足にまで全力の、エモーショナルな舞台は、半分だけであったが、私に与えられたのである。
(2018/9/29)
World Tour 2018 in Japan Extra Showと銘打ったさいたまスーパーアリーナのライブは、Extra Showなのだ。つまり、Extraではない方の、幕張の2回は、全落ちしたのだった。「厳正なる抽選の結果、残念ながら…」というメールの、『厳正なる』と言う部分には、大いに疑問符が付いていて、いや運営側、年寄りを排除してるでしょ、と言いたくなるのだ。年寄りは恨みがましい、と言う俚諺を、現実化させているのだ。
とは言え、やって来ました、さいたまスーパーアリーナ、Su様を拝めるのは、忘れもしない去年の12月、広島以来なので、ありがたいことと思わざるを得ないのだ。発券されたチケットは、上手側、モッシュピットの傍、一段高い座席で、モッシュピットのAとBの境目辺りで、肉眼ではご尊顔を拝めないが、持参した双眼鏡を通せは、MOA METALの笑顔が確認できるという、シートなのである。モッシュは出来ないけれど、舞台全体を見ることが出来るのだ。
話に聞いていた通り、SU様がMOA METALも交えた6人のダンサーを引き連れた、という構成で、バンドは、藤岡さんが亡くなって、その位置を弟子である大村さんが占め、大村さんのところにISAOさんが入るという構成で、今日のドラムスは青山さんでも前田さんでもない、誰かだった。
誰でも良い誰かであるしかないメンバーによる、ライブであるのは、仕方がない。YUI-MOAの歌をもう聞けないのは、仕方がない、ギターソロがないのも仕方がない、ドラムソロがないのも仕方がない、ただ、SU様がそんなバンドを励まして、独り、われわれのために、歌声を賜らせ給うライブで、われわれは、一年ぶりに耳に戴く、SU様の御声に涙するしかないライブだったのだ。
(2018/10/28)
良い客というのは、ライブにやって来る客だというのは、常識となっているので、本当に仕方がない。
FERN PLANETはドラムスが代わって、今日はサポートメンバーということで、男性が入った。悪くはないと思った。
理解し難いのは、SERINAさん相変わらず、自分は自信がないので…というようなMCをして、まあ若いからそんな風に考えるのも仕方がないかも知れない。こっちとしては、以前のようなバリバリに盛り上がれる曲をやって欲しいのだが、今時の、自分語りの曲がメインで、テクニカルなギタープレイがなかったのも、残念だったな。
(2018/10/30)
今日の(昨日の?)ライブは、久しぶりのモッシュ参戦で、番号から言えばかなりの後ろなんだが、ブロック分けの関係で、L3ブロックの先頭柵から3列目辺りに、位置どりすることが出来たので、嬉しい。肉眼で、舞台上のSU様の表情は、窺い知ることはできないが、SU様とMOA-METALが7人の中のどこにいるかは、直ぐに分かる、という距離なのだ。
前座にSABATONが入るのも、凄いと言えようが、二人だけだと、以前の曲が使えないので、短いセットリストを何とかするために、SABATONを持ってきた、というのもあるのだろうと思われる。気の良いSABATONが快諾したのだろうし。
ライブは、SU様が全てを圧倒的な力で支配していた。支配することで、バンドのそれぞれが抱えていた、それぞれが失ったものに対する悲しみを解放したのだった。青山だったし、大村とLEDAのソロパートも僅かながらに戻ってきたし、MOA-METALが二人引き連れてG.J.を歌うことで、MOA-YOIの曲を引き継ぐことのできる事を示したのだった。SU様の歌声とその存在が私をも支配したライブだった。
最後の曲になっては、終に我慢できなくなって、モッシュッシュに参加したのだった。道理でその後、足が少し痛かった。
ところで、自分と言えば、帰りの夜行バスのチケットが11:10だったので、果たして間に合うか、ということにずっと心配していた、チキンであったのだ。SABATONが終わった時点で8時だったので、ライブが終了して、ポートライナーに観客が集中したら、三ノ宮には30分以上かかるかも知れない、一時間はみておく必要のある、神戸ー大阪間や、夜半に向かっての列車本数だとか、時間のギリギリであることに、心が占められていたのだ。年寄りには、遅れたら途中で、キャンセルして、もっと遅くのバスを探せば良いじゃないか、それでもダメなら、ホテルを探せば良いじゃないか、という覇気が無くなりつつあるのだった。
で、心配のあまり、今後の予定が示されるであろう、最後の紙芝居はパスして、ポートライナーに向かえば、同じ事を考えているメイトも少なくなかったが、結局のところ、すんなりと三ノ宮に到着し、JRの快速列車にも間に合って、10時前には大阪に着いたのだった。チキンには、相応しい時間が与えられたので、大阪から一駅の福島に戻って、いつもの銭湯に浸かることが出来たのだった。
で、湯冷めを気にしてもう一枚羽織って、福島の駅から、夜行バスのターミナルまで歩いて、15分前に到着して、今回のライブツアーは終わったのだった。
(2018/11/1)
今年のさくら学院祭は2daysではなかった。そのあおりで斯界で巻き起こった、争奪戦を掻い潜って得たのはプラチナ・チケットであったので、たとえ東京国際フォーラムホールCの三階席であったとしても、実に有難いシートであったのだ。一人一人の区別は付くが、表情までは読み取れない距離なので、舞台全体を俯瞰したり、双眼鏡を覗いたりと、忙しいことになるだろうけれど、仕方がない。
ここ暫くは、貴賓席に当選していないし、気のせいか当選するのはいつも最後尾席なのだ。入場前に入り口近くでたむろする、お仲間が、貴賓席なんて当たったのは、いつだったかね、彼はビギナーズラックで前列当たったらしいよ、なんて声が耳に入るので、やはりそういうことなのかも知れない。まあ、仕方がないし、ライブビューイングもチケット取ってあるから、そこでアップを観れば良いのさ、なんて自分を慰めるのである。
学院祭が始まって、あゝ、この舞台は今しか見ることが出来ない、もう二度とないのだと思うと、じわりと来るものがある。古の人が歌に、くものかよいじふきとじよ乙女のすがたしばしとどめん、とあるように。
さらに、この曲、あの曲も、このメンバーでは多分これ限り、あれも演じて欲しかった、これもと、父兄が望んでも、仮令、本人達が望んでも、全てを叶えることが出来ないし、この曲の彼の子の振りと、彼の子の振りを同時に観ることさえ叶わないのだ。一瞬にして過去へと流れ去る輝きはそれ故にとどめたいという気持ちさえ、そして流れ去るのだと。
だが父兄は、流れを見つめているので、今年の転入式に、前年の一年を副会長として過ごした麻生さんが、新たに生徒会長となれなかった時に見せた涙を忘れていない。そして、その気持ちを自分のことのように感じてしまった、生徒会長である新谷さんが、自分に抱える自分の立ち位置への不安と相手の気持ちを、綯い交ぜにしたままに今も在ることが、二人を取り囲む学院生の寸劇に演じられたのだ。
だが、第三の日髙さんが、デウス・エクス・マキナーとして、いやさくら学院なので、デアス・エクス・マキナーであるな、現れて、寸劇の時間を戻し修正するのである。日髙さんは、新谷さんに、生徒会長に選ばれなかった麻生さんの今を見せるのである。そして麻生さんは、卒業という終わりの見えてきた今、卒業する三人のために作られた新しい歌を独り歌うのである。そして日髙さんは、その様子を生徒会長の新谷さんに見せて、未来に向かう勇気を与える、という寸劇後半が演じられたのである。
それは、フィクションであるの筈なのに、リアルが確かに混じっていて、むしろリアルがフィクションの形となって舞台に現れたのだろう。父兄は三人を何年も前から見続けているので、その気持ちを推し量ることができるゆえに、三人のリアルなエモーションが、舞台から天井桟敷にまでさざ波のように伝わって来るのである。そんな舞台だった。
(2018/11/26)
p.s.
学院祭の二日後に各地の映画館でライブ・ビューイングがあったので、もちろん、行ったのだ。場所はいつもの新宿バルト9である。一度、観た舞台をまた観るというのはどういうことかと言えば、ライブビューイングが終わって、出口に向かう父兄の中に、あと二回は見たい、という声を耳にして、そういうことなんだよねと。
三階席からは見えなかった、舞台上の学院生の表情が見えたのが良かった。寸劇の中で、生徒会長が放った、私じゃなくて真彩がなれば良かったのよ、というフィクションでありながら、リアルな言葉がはっきりと聞こえたのは、良かった。それで、父兄のモヤモヤや心配がやっと晴れたのだから。一回観たものに、また没入して、何処にいるのかも忘れてしまうというのも、実にありがたいことだった。
山出さんのライブは、そういえば、2回目で、単独ライブは初めてだな。山出さんの音楽はモッシュするようなジャンルではないので、ブニュも前方には椅子席が100席ばかり作ってあって、チケットの番号では、椅子には座れなかったが、椅子席の最後のすぐ後ろにポジションが取れたので、山出さんの笑顔が良く見えたし、流してくれた視線も受け取ることができて、良かった。
曲の方は、学院生の時に作ったオリジナルが断然良くて、カバー曲はすんなりとは腑には落ちなかったな。アコースティック・ギターに、今日はベースも入って、作曲に協力している、ビギンの上地等も途中からゲストということで出演したのだが、残念ながらイマイチだったな。山出さん独りでやった方が良かったと思われる。つまり、バックバンドを揃えれば、もっとイケる気がした。
ということで、次回のライブの日時が発表されて、20時から来場者優先チケット予約がありますよー、というフライヤーを貰って、家に帰ってからでも良いかと思って、21時にアクセスしたら、優先チケットは売り切れていたじゃないか。
(2018/12/27)
p.s. とは言ってもそれはそれ。後で申し込んでチケットは確保したのだ。
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いくぞライブ