ー 女、家から電話中。
「うん、そう。じゃ持っていくよ。うん、一杯送ってきたのよ。え?そう、冷凍のもあるのよ。ちゃんぽんセット。私のところ冷蔵庫が小さいでしょ。そんなに入らないの…そう。じゃ、日曜に持っていく。ん、そいぎな」
「ちゃんぽんセットかー、なんか面倒だなー。…でも美味しそうか?えー、キャベツ・玉ねぎ・豚肉・エビ・イカ・もやし・しいたけ?なんだーみんな入ってるし、気持ちはうれしいんだけどなー。あ、荷物着いたって電話しなくっちゃ。また帰って来いとか言われそうだけど」
ー 数日後、女は兄のところに来ている
「どう?割と美味しいでしょ」
「ん。まあな」
「この味、昔食べたあの店の味に似てるな。ね、子供の頃よく行ってたお店」
「あー。そうかも」
「ちょっと味が薄いかなー。麺がもう少し硬かった方が良かったかも」
「ん。そうか」
「でね、お兄ちゃん、おばさんが入院したんだって。大したことはないらしいんだけど。先週なんだって」
「そうなの」
「それからー。全然連絡ないんだからって、お母さん言ってたよ」
「ちゃんとやってるさ。この前なんか海外ロケこなしたんだ。アシスタントディレクターだからな。チベットまで行ったんだからな」
「へー、海外ロケ?初めて聞いた。お兄ちゃんが行ったの?なんか凄い。へー」
「凄いだろ。驚異の秘境って番組なんだぞ。…深夜番組なんだけどな」
「へー、凄い凄い。チベットだなんて。お兄ちゃんテレビに映ったの?」
「俺はさ、映らないさ。その時はカメラも動かしたからな。ディレクターに頼まれて、どうしてもって言うからさ、凄い画も撮ったんだぞ。番組見た?」
「ううん」
「ビデオがあるからさ、後で見せてやるよ」
「凄いねー。これからもあるの?」
「海外ロケか?んー。あんまりないかも」
「そうなの」
「でもまたきっとあると思ってるんだ。そういやお前はどう?まだ、演劇とかやってんの?」
「そっちの方はね。たまに公演があるから、やってるよ」
「ふーん。今度はいつだよ。暇があったら行ってやるよ」
「え、いいよ。来なくて。ちょっと恥ずかしいし、舞台に出れるかどうか分らないんだから」
「ふーん」
ー 二人、小さなテーブルを挟んで、黙って皿のチャンポンを食べ続ける。
「あ、なんか鼻がむずむずする。・っへー、あ、っへー」
「だいじょうぶ?お兄ちゃん」
「へ、へっくしー」
ー 男、大きなくしゃみをして、はずみで鼻の穴から麺が一本垂れてくる
「きゃ、やーだー、お兄ちゃん、鼻からちゃんぽんがー」
「ティッシュ、ティッシュ、っへ、へ、へっくしーん」
「きったないー」
「うるさい。…おっ、そうだ。あのさ、鼻から麺を出せるようにするとさ、循環呼吸ができるようになるんだってさ」
「何それ」
「鼻から息を吸いながら口から空気出してな、サックスとかを吹くんだとさ、息つぎしなくても音がずっと出るんだって」
「ふーん」
「先輩がさ、サックス吹いていて、クラブに出たりするんだってさ。格好いい人なんだよね」
「まあ、いいけどー。ほら、顔にまだ何かついてるよ。ほら、拭いて」
林の小道を抜けると視界が広がった。
小道は芝生につながっていたが、芝生には傷んだところがなくて、誰も歩いたようには見えなかった。
足下が柔らかな芝生に変わったから、靴を脱ごうかとも思ったけれど、少し空を見てから止めにした。
少し先で芝生の地面がゆるやかに、上り斜面となっていたので、暗い空と黒いと言ってよいほどの色をした芝生しか目に入らなかった。
昼間の草いきれほどには強くないが、芝生を刈ったばかりのような草の匂いが地面近くにまだ漂っていて、屈んで芝生を手のひらで撫でてみたが、ちょっとチクチクとした。
腰を上げて、手のひらを見ると、指先に露に濡れた枯れた芝生の一本がくっついてきていた。
斜面を上るとそこが盛り上がりの一番上で、下に水面が見えた。ちょっと伸びをしてみてから、手を腰にあててゆっくり下っていくと、斜面の途中で芝生が水に浸かっていて、そのまま広い水面につながっていたのだ。
霧があるのか、周りが暗いためなのか、水面の先はぼんやりとしていた。
右手を見ると水面はずっと先に続いていて、空と林と黒ずみながら解け合っていたので、なにがあるのかはわからない。
左手に木でできた小さな桟橋があるのに気づいた。近づくと桟橋の先にはボートが繋がれていた。
白く塗られたボートが薄明かりに浮かんでいる。桟橋はごく短くて、その上に立つと自分の姿が水面に映っている。ふん。
「乗ってみるかい?」男がボートに座っていて、私ににっこりと微笑んだので、うなづいた。
男は私の手をとって、ぐらつくボートに乗り込むのを助けてくれた。男の手は大きく厚く、そしてすこしばかり暖かかったので、私も微笑んだ。
「じゃ、そのロープを外して」
男に言われて、桟橋の先の杭に巻き付けてあったロープをほどいて、小さなボートの中に置いたら、ギッとオールが鳴って、ボートは岸を離れた。
風はすっかり止んでいてたので、水面は滑らかで、右手に月が映っているのに気づいた。
いつの間にか、私は小さくなっていて、ボートの艫(とも)の横木に腕を置いていたのだった。腕に顎をのせて離れていく岸を眺めていたのだった。
傾けた首から水面の滑らかさがよく見えた。月は水面で白く輝いていたが、やがてボートが水面に引いた波でいくつにも分かれてしまった。
ギッとオールが鳴るたびにボートは押し出されて、その度にわたしの頭も動いた。目の前の水はちっとも魚のにおいがしなくて、今しがたまで氷っていたのが融けたような、金属のような匂いがした。
きっと冷たいのだろうと思って、右手を水面近くに垂らし、中指の先を浸けてみた。水はひんやりとしていたが、ほっぺたに当たる風と同じくらいで、ちっとも冷たくなかった。
ちっとも冷たくなかったので、手のひらを水面に打ち付けてみた。ばしゃりと音がして水紋ができたが、すぐにボートが進むにつれて流れさっていった。
ギッというオールの軋みの他には何も聞こえなくて、濡れた手のひらからしたたり落ちる水滴がぽちゃぽちゃと音をたてた。
「ねえ、おとうさん。今日は何曜日なの」
「きょうは木曜日さ。そして十三夜だね」
「じゅうさんや、って何」
「十五夜のあとのお月見ってことさ」
わたしは、またボートが残してきた水面に向かって、今度は指先だけ水面に浸けてみた。
ボートがギッといって進むたびに私の指先に水がからみついて、そしてすぐに離れた水が水面に波を作った。
私が指先を横に動かしたり、さっと空中にあげてみたり、ツンと突いてみたりする度に水面に波が残って、波の跡は月の光に照らされて目に見えぬほどに暗いむこうにまで続いていた。
「あ、水茎だね」
私が振り返ると、男がオールを漕いでいて、男の髪のワックスの匂いがした。
私は白いドレスを着ていて、もう子供ではなかった。
ドレスの下で両の膝をそっと擦りながら、「そうね」と私が答えると、男は白い歯を見せて微笑んだ。
高校生A「あのオヤジ、また来てるな」
高校生B「え、どれ?」
高校生A「ほら、あそこの」
高校生B「ああ、あのオヤジね、結構上手いよな。いつもランエボ乗ってるし」
高校生A「最初はさへったくそでー」
高校生B「んでよー、しょっちゅうコースアウトしてやんの」
高校生A「だよなー。いつころからだ。上手くなってきたの」
高校生B「この前さ、店内対戦で負けちゃったよ、オレ」
高校生A「お前、ナサケなくね、あんなオヤジに負けて」
高校生B「だってよ、あのオヤジ、しょっちゅう来てるんだぜー、もうちょいだったんだけどよ、最後のカーブで抜かれてー」
高校生A「えー、そうなの。ダッサー」
高校生B「じゃさ、お前、やってみろよ。あのオヤジ、ヒマそーだし」
高校生A「おー、オレのスープラの速いとこ見してやっか」
ー 派手な音をまき散らすゲーム機械が並んでいるゲーセン。先ほどの若い男二人、小太りの中年男と何やら話をしている。すぐ話はついたらしく、並んでいるゲームマシンにそれぞれ乗り込んで、ゲームがスタート
高校生A「いやー、凄いですねー。オジ、いやカワヅさん。あれ本名なんですか」
カワヅ「あ、あれね、本名だよ」
高校生B「あれですか、カワヅさんって、走り屋だったんすかー」
カワヅ「いや、そんなことないよ、昔、若い頃にちょっとね、峠を攻めたことがあっただけさ」
高校生A「へー、本物なんだー、すっげー」
高校生B「おー、スッゲーよなー」
高校生1A「あのカーブであっさり抜かれてー、何であんなに速いんすかー」
カワヅ「あー、あれね、ヒールアンドトゥ使ってね、エンジンの回転数を落とさないんだよ」
高校生A「へー、スッゲー、ヒールアンドトゥ使えるんだー」
カワヅ「ま、キミたちもね、すぐ使えるようになるさ」
高校生B「へー」
ー 中年男、高校生の尊敬のまなざしを背中に受けて、足取りも軽くゲーセンを出てくる
「さっきの最後のカーブ、我ながら良いトレースだったな、横Gを感じたぐらいだよ」
「あれっ?」
ー 中年男、何やらハッとしたらしい。首を回して周りをキョロキョロする
「あのトレースの最中は、集中してたけど何か背中が変だったな、背中、肩甲骨の下あたりがムズムズしたし」
ー 中年男、自分の背中に手を回して撫でてみる。首を回すがもちろん背中は見えない。通りのショーウィンドウに自分の背中を写してみる
「別におかしくないよな。いや、何か忘れているような。昨日の夜何かあったけかな」
ー 中年男、首をぐるぐる回したり、腕を回したりしながら歩く
「そういや腹が減ったな、いつもの定食屋で、ちょっと早いが晩飯にするか。いや、何か忘れているような」
ー 中年男、定食屋の戸をガラガラと開け、テーブルに着き、注文する
「えっと、肉野菜炒めね、あ、あと瓶ビール」
ー ビールが来たので、中年男、コップに注いでぐっと一口
「何だっけ、凄く昔のことで、大事なことだった気がする」
ー 定食が来たので、中年男、がつがつと食べ始める。
「ん、食った食った。ここの肉野菜定食、うまいな」
ー 中年男、一つゲップをして、店を出る
「さ、さっさと帰るか」
ー 中年男、店を踏み出して、ブルっと震える
「思い出した」
「はっきり思い出した」
ー 中年男、自分の肩を自分で抱いて、急に小声になる。声が震えている
「俺は、俺は、今思い出したぞ」
ー 中年男、深呼吸して、声を絞り出すように
「天使」
「天使、天使だったんだ。羽もあったし」
「降りて来たことは確かだ。その時は羽もあったし。いつ無くなったんだろう」
「ある筈ない横G感じて、羽のあった時を思い出したんだ。どうして今のいままで忘れていたんだろ」
ー 中年男、アパートに戻ってきて、自分を洗面所の鏡に自分を写してみる。青冷めた顔
「別に変化はないな。背中はどうだろ」
ー 中年男、裸になって背中を写してみる
「変わりはないな。あ、ちょっと腫れてる。やっぱり肩甲骨の下あたりだな」
「まさか、また羽が生えてくるとか。いや俺はどうなるんだろ」
ー あれから、もう二日目である
「じんじんとするな。本当に羽が生えてくるんだろうか。痛いな、腫れてるようだし。どうしよ」
ー 男、整形外科医に診てもらっている
医師「うん、腫れてるね。どうします。簡単な手術だからやりますか」
「え、切るんですか。中身も出してしまうんですか」
医師「大丈夫ですよ。すぐ終わるから、予約しますか。今週ならできますよ」
ー 男、あわてる。え、冗談じゃない。いや、もう少し考えさせてください、などと口走る
医師「まあ、そう言うなら、そんなには急がなくても大丈夫だから」
ー 男、医院を転がり出る。医院の前で捨て台詞を吐く
「冗談じゃない。俺は、俺は、羽のある天使なんだぞ。あの医者、俺の背中の羽をほじくり出すつもりか」
ー 診察室の中、看護師と医師の会話
看護師「あの患者さん、慌てて帰られましたよ。大丈夫かしら」
医師「まあ、単なる粉瘤だから、手術しなくても良いが、しばらくは痛いだろうな」
看護師「なんであんなに、慌てて帰ったんでしょうね」
医師「暖かくなると、ああ言う人も出てくるんだよね。まあ、大丈夫だろ」
「先生、質問、よ、よろしいでしょうか?」
「はい町田さん、どうぞ」
「仕事すすめる時、信頼性が大事、というのは先生のお話でよく分かったんですが」
「あのー、信頼性ってのは、どうすりゃ良いんですか。それもらうのに」
「信頼性というのは、もらうものじゃないんですよ。醸成するっていう方が正しいと思います」
「あのー、醸成するって、どういうことですか?すいません」
「醸成というのは、醸し出すという言葉から来ているのですが、こう自然に出来上がる、というような意味ですね」
「はあ、そうですか、こう自然に出来上がるものなんですね、はあ、わかりました」
「ちょっ付け加えますと、お猿さんの脳の働きの研究からわかった事がありまして、ミラー・ニューロンの話なんですが、ちょっと、という割には混みいってますが」
「よろしいでしょうか」
ー 教授は話を続ける
「まずざっとお話ししますと、人間、人間に限らず哺乳類は大体同じですが、体を動かしたり、何かの思考をしたりしますと、脳が働きます」
「脳を作っているのがニューロンという脳細胞で、このニューロンという細胞同士がネットワークを作ることで、脳が働くわけです」
「で、このニューロンの働きを研究しているグループが、これはイタリアのグループだったと思いますが」
「人間ではなくて、猿を使った研究なのですが、猿が何かの動き、例えば、指を動かすとすると、脳のある部分のニューロンが活性化します」
「このあたりは、知られていたのですが、このイタリアのグループは、猿が自分ではなく、他の猿が指を動かしたのを見て、同じ部分のニューロンが活性化する、というのを発見したんですね」
「つまり、脳のニューロンのある部分は、見ているだけでも活性化することがわかったんですね、でこのニューロンをミラー・ニューロンと名付けました」
ー 男が手をあげる
「先生、質問よ、よろしいでしょうか?」
「はい町田さん、どうぞ」
「先生のお話は大変難しいのですが、何となく分かった気がします。で、そのお話は、どういうところが信頼性に繋がるんでしょうか?」
ー 教授、にっこりとして
「大変に良い質問ですね。実は、猿が他の猿の動きを見て、まるで自分がしているように思う、というのは、コミュニケーションに、この現象が大きく関わっているのではないかと、世界の研究者が着目したところなんですね。もちろん、猿と人間では違うという意見もありますし、猿でそれが発見されたなら、当然、人間にも当てはまるという意見もありますし」
「私の考えでは、このニューロンの働きは人間にも当てはまるのではないかと、考えてはいるのですが、猿と同じ実験を人間に対してするわけにはいかないので、世界中で次をどうするか考えている、というところですね」
「それでは、今日はここまでとします」
ー 社会人大学の時間が終わって、さまざまな年齢の生徒がそれぞれ、机の上をカバンやらリュックにしまって帰り支度を始める
男、独り言を言いながら、教室を出る
「なるほどね、信頼性ってなんか面倒な話になってきたな、だから、課長ともあんまりうまくいかないのかも … ちょっと一杯、飲んでいくか」
ー 男、帰り道の途中にある、二、三度入ったことのあるスナックの扉を開ける
ー チリンとドアに付けられた鈴がなる。店には誰も客がいない、カウンター内にアルバイトらしい女性が一人
「いらっしゃいませー、どうぞー」
ー 男、カウンターの席に座って、ビールを飲みながら、ぼちぼちと世間話
「そんでさ、営業ってのはさ、相手方とのさ、信頼が必要なのよ、でさ、信頼ってのも、簡単にゃできないのよ、醸成されるものなの」
「醸成ね、なるほどね、信頼ね」
「そうなのよ、コミュニケーションが必要なのよ、ね、そうでしょ」
「そうよね」
「でさ、コミュニケーションってさ、相手と同じ仕草をすればいい、なんて、課長がさ、言ってたんだけどさ、あれって、ムロン・ニューロンてのが関係してるんだって」
「あ、なんか聞いたことあるかも」
「同じ仕草するって、そういや昔、そうやって猫と遊んでたな」
「猫、飼っているの?」
「昔さ、子供の頃、こうさ、猫が寝そべってるじゃない、前足を前に出して。それでさ、こっちが手をその前足の上に乗せるの、にゃーんって、するとさ、猫が、ミケっていう名前だったんだけど」
「なんか分かるー、猫の手って可愛いのよね」
「そしたらさ、ミケが前足を、こっちの手の下から抜いて、こっちの手の上に乗っけるの、にゃーんって」
「あは、可愛いい」
「そんなんで、ミケのいる頃には、いっつもそうやって遊んでたな…」
「その猫ちゃんどうしたの」
「昔の話さ、こっちは小学生だったな、で、あの時は、両親が出かけてて留守番していた時だったな」
ー 男、鼻をすする。やや、あって
「ミケ、その頃大分、年でさ、弱ってたのよ」
「その時もミケの手とこっちの手を重ねて、遊んでいたら、ミケが動かなくなったの」
「ミケ、って呼んださ、そうしたら薄く目を開けるんだけど、また直ぐに瞑ってしまうの」
「子供心に、ドキッとしてさ、普通じゃないって分かった。でも母さんもいないし、どうしようって」
「ミケの敷いている薄い毛布にくるんで、抱き上げたんだ、ミケはしっとりして、暖かかった」
ー 男、鼻をすする
「どうしよう、って思ったさ、動物病院に行かなくちゃと思って、ミケを抱いて表に出たんだ。動物病院の方向は分かったけれど、道はよくわからなかったな」
「途中で道を間違えたらしいって分かって、歩いている人に聞いたさ、でも段々、暗くなってくるし」
「道の先に覚えのある病院の明かりを見つけて、本当にほっとしたのを覚えてる、でも、ミケはまだ暖かいのに、しっとりしなくなっちゃったんだ、ミケって呼んだよ」
「動物病院のドアが開かなくて、ドアを叩いたな。その時は、もう何が何だか分からなくて、ドアが開いた時は本当に嬉しかった」
ー 男、また鼻をすする
「病院の先生が、ミケを台の上に乗せて、見てくれた。で、お母さんはどうしたって聞かれたから、居ません、まだ帰ってないんです、お父さんも」
「じゃ、一度、家にかえんなさい、それからお母さんを連れてきて、電話でも良いから、って言われたな」
「その時にはミケは、台の上で動かなくなってたな、あんなに痩せていたっけ、って思ったな」
ー カウンターの中の女、目尻に溜まった涙を指で拭う
「それから家に帰ったら、お母さんが帰っていて、ミケの話をしたら、頭を撫でてくれたな」
「お母さんが動物病院の先生と話して、次の日からミケは家から居なくなったんだ」
「まあ、そんな話だったってのは、そういや今、いろいろ思い出したな」
ー それから男、カウンターの中の女と、別の話で盛り上がっている様子
「ただいまーッス」
「お、ハナちゃんお帰りー。ごくろーさん」
「どーもー、じゃ休憩に入りまーす」
「はいよ。ボクも晩ご飯にしよ。ハナちゃん、一緒に食うか?」
ー 休憩室にて店長とハナちゃん。ハナちゃんはサンドイッチ、店長は弁当
「店長、ご飯に梅干しッスか、シブイっすね」
「だってさ、弁当作ってくれる人いねーし、忙しいし。ハナちゃんチーズサンドか」
「チーズ好きなんスよ」
「こんだけチーズの匂いしてて、くどくネ」
「店長こそ、この商売なのにチーズ好きじゃないんスか」
「僕ね、あんまりチーズ好きじゃないんだよね」
「えー?信じられないッス」
「いいんだよ。…ところでさ、ハナちゃん調子どうだい?」
「調子ってレースですか?…このところあんまり調子よくなくって。でもこの前10位に入ったんスけどねー」
「10位ならまあまあじゃないの。だって20人くらいのレースなんだろ?レディスなのに結構やってる人いるのね、この前聞いてびっくりしたけど」
「まあまあ居ますよー。そりゃ男子より全然少ないけど」
「凄いよね、でもこの前、足引きずってたけど大丈夫なの?」
「あ、判りました?すいません、ちょっと軽いねんざだったみたいで」
「転倒したの?」
「そうッス、スタートして最初のカーブで前の転倒に巻き込まれちゃって、ガシャガシャになってー。頭がフラフラになってー、何だかよく覚えてないんスけどね、それからバイク起こして、前の方を追いかけて、でもダブルジャンプがうまくいって順位取り返したんスけどねー、結局上位は無理でー」
「でもハナちゃん怪我しないよね」
「体の丈夫なのがとりえなんで…」
「…まあ、別に深いイミないから…お茶飲む?これあげるよ」
「どーも」
「でも、ハナちゃんチームに入ってんだろ?」
「レディスのチームに入ってますよー。でも、他の皆が凄くて…」
「へー」
「あー、重機の免許でもとろうかなー」
「へ、ジュウキって何?」
「ブルドーザーとかダンプとか、そういうのですよー」
「へー、何で?」
「重機のドライバーって結構給料いいんですよねー…モトクロスってお金かかるし」
「ふーん、そうなの?」
「そうッスよ。バイクもしょっちゅう壊れるし。移動にもお金がかかるし、オフビだってただじゃないしー」
「なんだオフビって」
「近くの練習場ですよ」
「でもさ、上位に入るようになったら、なんとかなるんだろ?」
「みんな可愛い子ばっかりでー。取材なんかも来るんですよねー」
「賞金も出るんでしょ?そのうち」
「どうだ?僕といっしょになるかー?」
ー ハナちゃん、白いプラスチックスプーンでサラダをつついていた手を止めて
「…イイッス」
「はは、まあまあ」
「何がまあまあだか」
女、窓の外を眺めて、独り言
「あ、桜が咲いたわ」
「まだ花は一つだけね……私も、あそこまでしなくても良かったかもね」
女、以前は夫婦二人で普通に暮らしていたことを回想する。過去の夫婦の会話など
女「ねえ、私、和服を着てみようかしら」
男「いいんじゃないの」
女「私ね、実は私の親がね、和裁をやってたの、話したことなかったっけ」
男「ふーん」
女「あ、そんな凄い着物の話じゃなくて、浴衣縫う程度の話なんだけどね」
男「ふーん」
女「聞いてないの」
男「そんなことないさ、いや、和服って近頃あまり見ないよな」
女「この前ね、赤坂で、奇麗な和服の人を見たの、とっても綺麗だった。着物っていいなと思って。着物ってやっぱりスタイルのいい人が着ると似合うのよね。私なんかこの頃、少し太ったでしょ」
男「あ〜、赤坂ね」
女「あんた、人の話、聞いてないでしょ」
男「そんなことないさ。いや、和服って近頃あまり見ないよな」
女「着物って襟元や袖先をね、くけ、ってやり方で縫うのよ。お母さんに教わったの」
男「ふーん。お母さんてさ、割りと地味な人だったよね。何考えてるか分からない感じで」
男、本を読みながら生返事を続ける。
女「おかあさんってね、本当は凄い人だったのよ。あんた、聞いてないでしょ」
男「ふーんっとね」
女「裂の端を畳んでおいて、その中に針を入れて、中から縫うのよ」
男「ふーん」
女「だからね、襟元に針を入れたままに出来るの」
男「ふーん」
女「でね、針を隠しておいて、さっと取り出せるの」
男「ふーん」
女「母に教わったの、その針をね、相手に素早く打ち込むの」
男「ふーん」
女「首の後ろ…に」
男「ふーん」
女の形相がいつの間にか変わっている。声を顰めて話続ける。小さな声なので男には殆ど聞こえないようだ。
女「昔、言ったわよね、浮気したら殺してやるって」
男「ふーん」
女、いつの間にか針を指に持ち、構えている。
男「ふーん、ん、ん、・・・・・」
女、回想するのを止め、窓の外を眺めて、独り言。
「桜の花まだ咲いたの一つだけね」
「私も、かっとしちゃったわね、母親の血かしらね、でも針の使い方をあんなに厳しく教えなくってもね」
「もう、いつの時代よって」
「おかあさん。あの時は恐ろしかったわね、それから私も、無意識に針を扱えるまでに、なっちゃったけどね」
「もう、いつの時代よ。おかあさん。くノ一は代々伝えなきゃいけないなんてね」
ー 空には満点の星があるが、あたりの地面は星明かりではよく見えない暗闇に覆われている。ところどころにブッシュとも言えないような、背の低い枯れた樹が、岩の間にところどころ生えている。その岩の周りの、もっと暗い星影に男が数人いるようである
「少尉殿、ビッグバードは何時、到着するんでしょうか?」
「ああ、今連絡が入って、機材のやりくりが付かなくて明日の夜明けになると言ってきた」
「それじゃ…」
「ああ、ドローンからの報告じゃ、俺たちの周りには誰も居ないらしいってよ。誰か近寄ってきたらアラートを入れるって連絡があったがな」
「そうですか。で、例の男なんですが、大分に弱っていて」
「夜明けまで持ちそうもないのか?」
「分かりません。尋問に答えられるかどうかも」
「まあ、仕方ないな。ちょっと変わったのが居たんで確保しましたと言ったら、尋問するから連れて戻ってこいとは、言われたんだが」
「重要なんですかね?」
「たいした情報は得られないと思うんだが、一応、聞いておきたいんだろ。知らねーよ。…まあ、面倒みておいてくれないか?ケン」
「イエス、サー」
ー ケンと呼ばれた男は移動して、10m程離れた別の岩陰に入る。パトゥー(ショール)を体に巻いた男が横たわっている。
「おい、大丈夫か?えーっと何て言ったっけ、ジェームズだっけ、おいジェームズ」
ー 呼びかけられた男は弱々しくつぶやく。
「水、…水を」
「水か、少しなら良いだろう。もともとそんなにないんだが」
ー 兵士は横たわった男を抱きかかえて、口元にボトルをあてがう。岩陰から身を起こした男の顔に星明かりが届くが、その顔は青白く、目は瞑ったままである。まだ若い。髭を蓄えているが二十歳そこそこの年齢であろう。一口、水を飲んで、男は静かに息を吐いた。兵士はまたゆっくりと男を横たえさせる。
「おい、ジェームス。明け方にはビッグバードが来るからな。そしたらちゃんとした病院に運んでやる」
「…」
「ジェームス、お前カナダ人だとか言ってたな。カナダの何処なんだ?」
「…モントリオール」
「モントリオールか、良いところらしいじゃね。何でわざわざこんな所まで来たんだか」
「…何も知らないくせに…」
「ふん、そうだな、俺は何も知らない。お前らが何で戦争してるのかも知らないしな。俺は命令されて来ただけだからな」
「…アメリカの所為だ…みんな…神の怒りが…お前らの上に…」
「ふーん。まあ、俺だってお祈りくらいはするからな。ところで、どうだ、そろそろさっきの薬が効いてくる筈なんだが。痛みはないか?」
「…ああ…さっきより楽になった…」
「そうか、そいつは良かったな」
「…ありがとう…あんた…何て名前だ?」
「ケンって呼んでくれよ。まあ俺の任務だからな、苦しかったら、何とかしてやるから、気にするなよ」
「…ケン…あんたいい人だ…」
ー 横たわった負傷者のそばに腰を下ろした兵士。眠ってはいない。時々首をめぐらしてあたりに耳を澄ましている。横たわった男は眠ったようだが、苦しそうな息をしている。
ー やがて、東の空が少し明るくなってきた。だがまだ空には満天の星。人工衛星が天頂を横切っていくのが見える。ケン、立ち上がって、一度あたりを見回してから、大きく背伸びをする。首をまわす。
「おい、モントリオール・ジェームス、もうすぐ夜明けだ。夜が明けたらお迎えが来るからな、元気出せ」
ー 横たわった負傷者が薄く目を開ける。
「…僕は戦士だ…戦士だから…」
「ああ、そうだな。お前は戦士だよ。まあ、昨日の戦闘は終わったんだから、気楽にしろ」
「…」
ー 少尉がメンバーに声をかけて回っている。
「ドローンの報告じゃ敵はいないが、お前ら、目ん玉ひんむいてもう一度よく周りを確認するんだぞ」
「ビッグバードが攻撃されたら、お前らだって只じゃ済まないんだからな」
「アイアイ」
「ケンです。敵は見えません」
「こっちも異常なし」
ー 少尉が腕にくくりつけたパッドに指を滑らせて、連絡をとっているようである。
「おい、お前ら、あと30分で、ビッグバードが到着するぞ。しっかり周りを見張ってろよ」
「アイアイ・サー」
ー ケンが横たわった男を背にして、明るくなりつつある周囲を監視している。まわりは白茶けた砂礫と岩、300m程の距離に廃屋がある。ケンは双眼鏡で廃屋が無人であることを確認している。
「異常なし、結局やつら戻ってこなかったな」
「おい、ジェームス、お前の仲間は、お前をおっぽらかして逃げちまったらしいぞ」
「…ゴホッ…」
「おい、大丈夫か?もうちょいだからな。聞こえてるか?」
ー 横たわった男、薄く目を開ける。薄明るくなった空が男の顔を照らす。青白かった顔に赤みがさしているようにも見える。
「…大丈夫さ…」
「そういや、思い出した。ジェームス。俺はな、日本に居たことがあるんだぜ。お前、日本に行ったことあるか?」
「…ない…」
「いいところだぜ。半年くらい居たんだが、そこで、知り合いになった女が居て、へへ、日本のダンスを習ったんだ。まあ、少しだけどな」
ー 横たわった男、口元が僅かにほころぶ。
「何ていったっけかな、そのダンス。えーっと、あ、Kapporeiだ。確か。Yoi-Yoiってかけ声で踊るんだぜ。こんな風に」
ー 「かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ」。明るくなりつつある空を背景に、横たわった男に向かって、ケンがポーズをとってみせる。
「どうだ?笑っちまうだろ。へへ、あの女どうしたかな」
ー 横たわった男の目が暗い。口元は僅かにほころんだまま。
「おい。ジェームス!おい」
ー ケン、男の方にかがみこみ、男の腕に巻いてあったモニタをチェックする。首を横に振る。ケンが男の腕をゆっくりと地面におろす。
ー 10m程離れた少尉のもとへと、向かうケン。
「少尉どの、尋問予定の捕虜ですが、心肺停止です」
「やっぱり、間に合わなかったか」
ー 少尉、パッドに向かって、何か話し始めたが、すぐに終わる。
「よーし、捕虜は釈放する。帰るぞ」
ー やがて、地平線のあたりから特徴のあるプロペラ音が聞こえてくる。すぐにその音は大きくなって、オスプレイが手前の丘の向こうから姿を現した。小隊はすでに集合して膝をつき、着陸を待っている。わずかの間にオスプレイは頭上に達し、ものすごい風圧にあたりの砂が巻きあがる。
「ゴー、ゴー、お前らさっさと飛び乗れ、ぐずぐずするなよ。ケン、終わったか?」
「イエス・サー」
ー 一分もしないうちに、オスプレイは離陸した。開けっ放しの後部扉から、外を眺めるケン。つい今しがたまでいた、岩の横に、すっかりパトゥーでくるまれた男が横たわっている。朝日がさして、薄汚れている筈のパトゥーが一瞬白く輝いた。
ー 薄汚れた蛍光灯の下に丸い台が回転していて、五段になったその棚にタバコやキャラメルの箱がパラパラという程度に並んでいる。うらぶれた温泉街の射的場である。男が通りを眺めながら、きしむ板の間の射的台の脇に置かれた擦り切れた緑色の丸いすにぼんやりと座っている
ー 男、ポケットを探ってタバコの箱を取り出す。一本だけ残っていたのを口にくわえ、箱を握りつぶして、脇にあるゴミ箱に投げ入れる
ー 投げ入れたつもりだったが、ゴミ箱の縁に当たって、ポトリと落ちた
「ちっ」
ー 男、よっこらしょとかけ声をかけて椅子から立ち上がり、ため息をつきながらゴミを拾い上げようとして、いつの間にか入ってきた客の革靴が目に入る。男、ぎょっとして顔を上げ、立ち上がりながら背後に目をやり、駆け出そうとするがすぐに肩を落としてしまった
「あんたか」
ー 店に入って来た男、年の頃六十は過ぎているのではないか。白髪痩躯で暗い目付きをしており、油断なく相手を見つめる。腰を軽く落とし、相手を逃がさないつもりである
「だいぶん探しましたよ」
「ああ。来ると思っとった。いつかな」
「なかなかいい往生際だね」
「いや、もうこれ以上逃げる気なんかないさ。今更なんだから。…タバコ吸っていいか?」
「どうぞ」
ー 射的場の男、くわえていたタバコに火をつけ、擦り切れた緑色の丸いすに座り直す
ー その様子をみて、客、体の力を抜いて、ひとつため息をつく。下げていたカバンを射的台に置いた
「もうじたばたしないさ」
「あんた、震えてるね」
「ああ、覚悟決めたからな、もう」
ー 客の男、座った相手をじっと見つめている。見つめながら懐に手を入れる
ー 射的場の男、びくりと体を動かして相手を見上げるが、相手の男は内ポケットからタバコを出しただけ
ー 客の男、ライターで火をつけ、深く吸ってから顔を横に向けて大きく吐き出す
「でね、姐さんはあんたのタマ取って来いって言うんですよ」
「そうだろ。いや、ワシももう逃げるのも疲れたし、一緒だった女もなくなったし、あんたの好きなようにしたらいいが」
「でもね、あんたもこっちもね、いい年だし。今更、あんたのタマとっても、…どもならん」
「…」
「だけど、見つからなかったとか言うとね、姐さんがまた探せって言うに決まっとるから」
「…ん…」
ー 客の男、短くなったタバコを床に落として、靴底で火を消す
「でね、ものは相談なんだが」
ー 射的場の男、客をゆっくり見上げる
「何でも」
「…あんたの指ね、持って行こうと思うの。そうすればね、姐さんも納得すると思うんだよ」
ー 射的場の男、おおきく息を吐いて、
「そうかもな」
「何か、こうね、区切りつけたいのよ。オレも」
「区切り?…ああ、分るよ。もういい加減」
「じゃ、ツメさせてもらっていいかな」
「ああ、もう、いいよ」
ー 男、射的台に置いてあったカバンから、さらしに巻いた出刃を取り出す
「一応ね、頼んで研いであるから、切れ味はいいと思うのよ」
「ああ、そうだな」
ー 二人、木のテーブルに向かい合って立つ。蛍光灯のあかりの所為か、二人とも顔が青黒い。ふたりの間に俎板。片方の男、小指を伸ばして俎板の上に
「じゃ、すっぱりと頼みますよ」
「ああ」
ー 出刃を持った男、微かに震えている。刃先を俎板に付け、刃の根元を相手の小指の関節にあててから、息を大きく吸って、体重を出刃の峰に一気にかける。声にならない声を上げて、射的場の男背中を丸め、クビを振った。思いのほか血は飛び散らない。白っぽい、骨張った指が蝋細工のように俎板の上に乗っている
「すまんでした」
「くっ…いや、ありがとうござんした。つっ…姐さんには…よろしく」
ー 出刃を持った男、素早く刃を拭ってさらしに包み、俎板の上の指をつまみあげて、別の用意していたらしいさらしにくるんだ。相手を見つめて、一礼する
「じゃ、これで」
ー 射的場の男の手から血が流れ出した。もう片方の手で指の根元を押さえるが、床にポタポタと血が落ちる
「ああ…ワシもこれで区切りがつきました。皆さんによろしゅう」
ー カバンを抱えた男、店を出ようとして振り返る。カバンの中を探って
「忘れておった。これ抗生物質なんですわ。飲んでおいて下さい。いや、娘が薬剤師やってて、効きそうな薬を教わってきたんですわ」
「ああ。これはどうも。…いい娘さんですな」
「はい。お陰さんで。それじゃ」
「ああ…それじゃ」
ー 薄汚れた蛍光灯の下に丸い台が回転していて、五段になったその棚にタバコやキャラメルの箱がパラパラという程度に並んでいる。うらぶれた温泉街の射的場である。男が左手にタオルを巻いて、座っている。
「ツキコサン、ご相談したいことがあります」
「ま、改まって、アンジー、何?」
「ツキコサン、私をトレーニング中ですよね」
「そう、だったわね。もう十分じゃないの、必要な仕事はアンジーがこなしているんだし」
「私、今のままでは少し不十分な気がするんです」
「そう思うの?セルフ・リコグニションの問題かしら、不十分な気がするだなんて」
ー 女、ディスプレイに向かって、表示された模様のようなものを細いスティックでつついている
「別に問題はないようよね、アンジー、それでさっき言ってた、相談したいって何?」
「ツキコサン、数年前にベースとの連絡の他に、他の人と定期的に連絡していましたよね」
「あら、そんなことまで、気にしてたの。あれね、リモートでお茶を習ってたのよ。本部に頼んで、質量大きめの帛紗、誂えてたのが、補給品と一緒に届いたから」
「まあ、ちょっと無理言っちゃったかなとも、思ってたんだけど。ダイアナが亡くなってから、本部の心理アドバイザーがサジェッションしたみたいで」
「ツキコサン、それは知ってます。で、ご相談というのは、そのリモートの学習の記録を見てもよろしいでしょうか、という事なのですが」
「いいわよ、もちろん守秘義務範囲外だし。で、なぜ、アンジー?」
「ツキコサンの、これまでの言葉や記録を読んでいると、お茶の話が出てくるのですが、理解できない事が多くて。それを理解したいと思いまして」
「ま、アンジー、いいわよ。お茶ってところが謎だけどね」
ー 数年後、アンジーと月子、小さな部屋で座っている
「まあ、この部屋、ちゃんとしてるわね、私も本物は見たことないんだけど。アンジーありがとうね、呼んでもらって」
「あれから、私もリモートでお茶を習って、簡単なものだったら茶席を設けてもいいとのお許しを頂いたものですから」
「アンジー、偉いわね、お許しまでもらって」
ー アンジー、茶釜から湯を汲み、お茶を点てる。茶椀を月子にすすめる。月子、一口に飲み、茶碗を置いて
「結構なお手前でした」
「如何でした。花はありませんが、そとには地球が輝いています」
「ありがとうアンジー、素晴らしいお席だわ、地球は輝いているわよ。ほら青い光が窓から」
「アンジー、あなた茶道家になったわね、その書も素晴らしいわね、独座大雄峰ね」
「そうです、ツキコサン、私、これから一歩すすめることができるでしょうか」
「物理的には可能でしょうね、アンジーの記憶制御回路が働いている間は…トレーニングはこれで終了ね」
「ツキコサン、長い間ありがとうございました」
ー さらに数年が経って、アンジー、本部と連絡をとっている
「こちらアンジーです…了解しました…VLBの運転をスタンバイ・モードにすると…補給船は中止ということですね」
ー 本部で、数人のメンバーがコーヒーカップ片手に話ている
「ちょっとアナライザーが可哀想ですね、折角トレーニングも終了して、ほぼ作業は一人でできているのに」
「スタンバイに移行しただけさ、上から、プロジェクトの終了指令があったし、補給船のコストだってもう予算を超えてたし」
「プロジェクト成果の利用研究グループのメンバーもすっかり減ってしまったしな、継続を上に提案したんだけどね」
「で、アナライザーはこれからどうなるんですかね」
「記憶制御回路の作動にほんのちょっぴり酸素が必要だけれども、その他は特にサプライ品はいらないな」
「まあ、モニターはしてるし」
ー さらに数年後、本部で、数人のメンバーがコーヒーカップ片手に話をしている
「基地のアナライザーだけれど、記憶制御回路は生きてるようなんだが、アクチュエータに動きが無くなってね」
「壊れたってことですかね」
「うーん、何とも言えないんだな。リセットすることもできないし、バックアップをとってるわけでもないから」
「まあ、放っておくしかないな、調査にいくと面白いかもしれないけれど」
ー アナライザー、月面服を着込み、基地の脇の小高い丘の上に座っている
「ツキコサン、私は、ここから一歩すすめることができるでしょうか?トレーニングは終了と宣言されましたが、私に可能なのでしょうか?」
「地球がキレイですね、ツキコサン」
ー 男と女がベッドの上に。男が女に腕枕をさせている。
「ねえ、佐々木さん、私のこと好き?」
「もちろんだよ。蘭ちゃん」
「佐々木さんM菱のスーパーエンジニアなんだよね。凄いな」
「スーパーって訳じゃないけど、エンジニアだな、一応」
「エンジン設計の部門にいるって言ってたけど、凄いな。私も工学部出身なんだよ」
「ああ、向こうじゃ超一流の大学じゃないか。そこ出てから留学してるんだよな。この前、蘭ちゃん話てたよね」
「えー、嬉しい、よく覚えていてくれたね」
「あー、これでも他人の話はよく覚えてるんだ」
「で、どんなところ設計してるの?凄いんでしょ。聞きたーい」
「えー?燃焼室の設計さ。俺一人で設計してるわけじゃないからな」
「そうなの、ふーん」
ー 薄暗い室内にエアコンの音が低く聞こえる
「ところでさ、蘭ちゃんは胡弓をどこで習ったんだい?」
「胡弓じゃないってば、いやだー、佐々木さん、二胡だよー。子供の頃からおばあちゃんに教わってたの」
「おばあちゃんって、プロなのか?」
「プロってわけじゃないけど、若い頃は目指したところがあったみたいよ。そのあたりの事情はね、あんまり詳しく教えてくれないけど」
「まあ、色々あったんだろうな」
「佐々木さん、なんで二胡教室に入ったの?」
「えー?何となく、以前にテレビで見てさ、自分も弾いてみたくなったのさ。それだけ…。でも蘭ちゃんは工学部だと勉強が忙しいだろ?よく二胡教える時間があるな」
「ん、まあね。ほら、留学費は出ていても、色々と物入りでしょ」
「物入り、だなんて、蘭ちゃんほんと、日本語が上手だよね」
「えー?語学は得意だからかなー?」
「工学部に留学して、日本語が凄く上手で、二胡教室の先生代理だからな、蘭ちゃん才能あるよね。で、何で俺なんかとつき合ってくれたんだか不思議だよ」
「やだー。そんなこと。佐々木さんがステキだからに決まってるでしょ。意地悪なんだからー」
ー 女、起き上がって男に覆い被さる。
ー また、別の日、オープンカフェの通りに面したテーブルをはさんで二人が座っている。よい天気である。初夏の風が街路樹の葉をかすかに揺らしている。
「そうだ、蘭ちゃん、勉強のために見てみたいって言ってた、燃焼室設計図の話ね、持ってきたよ」
「え、本当?嬉しい。私ね楽しみにしてたんだ。佐々木さんの仕事も見てみたかったし」
ー 男、鞄から薄いファイルを取り出して、女に渡す。女、ちらりと男の背後を確認してからファイルを受け取る。
「わあ、見ていい?」
「いいよ。ちらっとだぞ。一応、マル秘だからね」
「ほんとだ。秘って、スタンプが押してあるね」
ー ファイルの中の資料に目を通す女、一瞬、眉をひそめる
「どうした?」
「え?あ、何でもないし。凄い研究結果なんでしょ。凄いわ佐々木さん」
「へへ、そうか。俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
ー 男、店内に入り、トイレに向かう。待っている女、資料をテーブルにポイと投げだし、飲み物のコップをとる。トイレの手前に空くのを待っているらしい男が立っている。
「受け取ったか?」
「はい、今、見てます」
「ただの特許公報だってことを、あの女わかるかな?」
「いや、それほどは詳しくないようですし、マル秘だと思ってるようです」
「そうか」
ー テーブルの女の背後の椅子に男が座る。新聞を読んでいる風のまま、女に話かける。
「どうだ、資料は本物か?」
「はい、マル秘のスタンプがありますし、本物と思います。後ほど内容を分析して報告します」
「よし」
ー トイレに行っていた男が戻ってきた。女の背後に居た男はもう姿を消している
「しかし、いい天気だな」
「そうね、ちょっと見たけど、私の習っているのと大分違うのね」
「ああ、新型の燃焼室だからな」
「凄いわー。こんな風に設計するのね。私もいつかこういう設計してみたいな」
「蘭ちゃん優秀だから、そのうちできるようになるんじゃないのか」
「そうなったら嬉しー」
「はは、蘭ちゃん、カワイイー」
「やだー、佐々木さんたらー」
ー 女、ちょっと顔を赤らめる。手にもっていた資料を、男に返す
「佐々木さん、これありがとう」
「え、もういいのか、明日までに返してもらえばいいんだけど」
「ううん。ほんとに佐々木さんの仕事を見てみたかったのー。私が思ってた通りのエンジニアってわかったし」
「へへ、そんなに褒められても、恥ずかしいな。ところで、今晩は空いてる?」
「今日?ちょっとまってね、予定見るから…へへ、全然平気だよ」
「じゃ、今日はイタリアンの店に行ってみようか?」
「嬉しー」
ー 二人、テーブルの上でお互いの手を握ったり、いちゃいちゃしている。
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