行き先

むやみに歩き回った結果、腰を悪くしたのだ、と家人は云うが、そうではない、と言いたい。まず、闇雲に歩き回ったのではなくて、路と足の関わりを今一度求めたのだ。



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散歩の真相

神楽坂(1999年某月某日、目的地まで0.1時間)

この間、散歩したのは神楽坂だ。きれいどころ(昔、そうだった関係の方々も含まれる)が歩いているのに出くわす。見番もあって粋な黒塀と見越しの松がまだ残っている。ここんとこでは、趣味の風呂屋めぐりと趣味の下町めぐりが御一緒している。神楽坂を下から上がって行って、本屋の左の道を入ると熱海湯がある。だから、下町めぐりでは風呂道具は欠かさないようにしている。神楽坂は割烹がいくつかあるが、一見さんは入り難い。だが、この風呂屋の近くには加賀、という割烹があってランチなら気軽に入れる。宮城道雄記念館も歩いてすぐだ。落ち着いてよいところだったな。宮城道雄の奥さんが芸大の邦楽教授だったとは知らなかった。

ところで下町めぐりも趣味としていると書いたが、神楽坂はどちらかというと新興の街なので下町とは言い難い。だが、私の判断基準として、ばあさんや猫が住んでいれば下町とするので、その範疇に入れてよいと勝手に考えている。下町というのは、ちまちましたものが並んだ、前近代的な街と思う人がいるやも知れないが、私はそういう風には捉えない。

場所の価値、つまり富士の裾野の畑地と銀座の土地の違いは、そこに人が何世代にもわたって住み続けて蓄積した文化のネットワークに起因するものなんだと思う。つまり、そんな風に価値を高めてある土地だから、地上げすることによって高く売れる。だが、地上げしてビルを建て、住民を追い出してしまうと、その土地の価値は下がる一方ではないのだろうか。箱崎にIBMのビルがあるが、この典型的な例で、最初はきらびやかでマスコミにも取り上げられもてはやされていた場所だった。今ここを訪ねれば、土地としてさびれてしまっているのが分かる。人が住んでいない場所、つまりばあさんや猫が見えない街は、どんなに新しいビルが建っていようと、既に衰退が始まっているのだ。

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川越まで(2001年10月某日、目的地まで9時間)

川越までは遠かろう、ということで、狛江を出たのは七時を過ぎて間もなくだった。順調に歩いているのだが、調布を過ぎるのに少し時間がかかった。この前に多摩川の土手の遊歩道を歩いた時に道路にペイントしてある里程を見ながら時間を計ってみたら、5km/時で歩いていた。深大寺の西側の道を真っ直に北に向かうと三鷹に至る。ただし歩道と言える程の道がないのが辛い。車道脇の下水の蓋が一段高くなった程度が歩道と呼ばれるものだ。

北上を続けて田無からは所沢街道を北西に進む。田無からおよそ二里で所沢駅に着く。所沢の駅は町の東外れにある。そのまま、街をかすめるように所沢航空記念公園を過ぎる。このころ、雨が降り出した。雨具は用意しなかったので濡れるのを構わず歩き通すものの、たまらず、団地の中の餃子の店に入って遅い昼食兼雨宿りとする。小止みになったようなので、店を出て防衛医科大学を過ぎ、川越に向かう一直線の県道6号に出たところでついに本降りとなってしまった。私の防寒コートは極細の綿素材だ。濡れるがなかなか水を通すことはない。だが、ズボンが濡れてきてしまった。帽子もびしょ濡れだ。あきらめて、コンビニで傘を購入した。僅か千円足らずで立派なジャンプ傘が買えるとは、確かに円は高過ぎるのかも知れない。

この一本道は約二里半で川越に至る。両側は畑が続き、雨の中をひたすら歩かなくてはならない。半里程歩いたところで、立派な屋根つきのバス停があった。シチズン時計の提供と書かれていた。雨の中、少し疲れが出ていたが、ここで休むことができた。有難うシチズン時計殿。

真直な道は、歩いても歩いても進んでいないような気がする。通り過ぎる車に水溜まりの水をはねかけられると気が滅入る。だが関越道を越えれば、市内に入るまでは約半里、終点の時の鐘までは一里だ。市内に入る手前で雨があがった。 市内に入ったら、帰宅ラッシュが始まっていた。目の前で車線変更しようとした車が後部を横の停車していた車に擦り付けていった。その後はどうなったことやら。

今の川越の中心はJRの川越駅と西武新宿線の川越駅の間にあるようだ。新富町の賑やかな通りで見つけた和菓子屋でおみやげを買った。この店、客にお茶を出してくれる。商売とはいえ、御親切、有難う。この通りの脇に銭湯を見つけたので早速のれんをくぐる。新富町一の六にある。

小江戸で有名な町並みはさらに先にある。湯上がりの髪が少し冷たいが、急ぐ必要はない、ぶらぶらと歩く。江戸の豪商の町並みが残されていた。耐震構造なぞ埓の外、ゴテゴテあるいは関西風にコテコテか、真っ黒いクリームパフェのように盛り上げた、いやクリームでは軽過ぎるか、和風ではあるが、これまで見たことのない重量感ある厚みの瓦屋根の商家が建ち並んでいる。屋根の厚みが富貴を自己主張しているのだ。観光案内所はもう閉まるところだった。案内所の親父に町並みが素晴らしいと話し掛けてみた。この通りの直ぐ先に、荒川の支流である入間川が街を取り囲むように流れていて、船着き場があったのだという。江戸まで十里の舟旅、さぞ気持ちよかろう。

電車に乗り込む前に居酒屋を見つけて入ってみた。客は誰もおらず、亭主は不景気なことを嘆いた。以前、東京にいたという。

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池上梅園(2002年2月某日、目的地まで2時間)

梅園は本門寺の西にあって、以前は個人の別宅だったという。最後の持ち主は向島だか日本橋だかの料亭の主人という話で、その主人が亡くなってから、この庭園を持て余した遺族が東京都に寄付したのだと。役人の管理するようになってから、梅の木を増やしたという。庭園の奥に、あるいは長屋門のある本来の入口から木立を透かして見えるあたりに茶室がある。手前に池を配した鍵型の、茶室としてはやや大振りの建物だ。その入り口によく手入れの行き届いた白加賀の古木が植わっていた。目の高さに大きな日傘を置いたように白く咲いた梅の木は、おりからの暖かい日差に輝いている如くであった。庭園一番の梅の木であった。

梅園から池上駅に向かうと既に池上本門寺の敷地で、本門寺は言うまでもなく日蓮宗の大寺だ。道のそこここに塔頭の門が建つ。中に「水行」の文字の目立つ張り紙を出した寺があった。今度の日曜日、中山で修行を積んだ行者達がやってくるらしい。まだ梅の季節、頭から水をかぶるのは胆力が必要だ。その気迫に恐れをなして駅の方面に進めば胡麻屋があった。いり胡麻はもとより、胡麻の油、羊羹や漬物まである。土産に胡麻羊羹を買い求めた。レシートに貼ってある金の胡麻シールを集めるとご利益があるらしい。

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所沢 柳瀬山荘(2002年2月某日、目的地まで6時間)

柳瀬山荘に閉園時間の三時までに着きそうにない、となったのが新座市に入った頃だった。バスに乗って時間を短縮しようと思ったものの、ほんの四、五の停留所を過ぎたあたりで川越街道を渡ってしまった。降りて街道に戻ってから、また北に向かう。バス路瀬線はこの街道を走っていない。目指す山荘はこの街道沿いにある。

やがて所沢と志木を結ぶ主要道と川越街道のインターチェンジが、谷底のような場所に現れた。谷底は全部が道路だった。ここを越え、丘の上の跡見女子学園のバス停を見つけたのが三時に十分程前だった。手持ちの案内図は、山荘が跡見女子学園に接しているかのような具合だったが、ここで迷ってしまったのだった。立派な長屋門のある山荘の入口は、結局、交通の激しい、コンクリ工場のガラガラいう音の耳障りな、国道沿いに見つかった。時間は三時を三十分程過ぎて居たが、入り口の鉄門が開いていたので、構わず入った。すぐに崖を登る急な山道になっていて、一分程で上に着いた。

小さな冠木門をくぐると見上げるように大きな藁屋根の豪壮な家だった。もう座敷をみわたせるだろう縁側の雨戸もしまっていて、土間の入りくちが半間、開けっ放しになっていたが誰も見当たらなかった。母屋の左手にまわると瀟洒な平屋の建物が渡り廊下でつながっていた。庭石伝いに、先に進んだら、これが二畳台目の茶室か、蹲るようにそこにあった。結構な眺めであったが、すぐその裏手に、不細工な人家が乗り出すように建っていて、私はうつむいてしまった。

母屋の横には自動車が一台止めてある。その横には物干しがあって、シャツやらがこまごまと曇空の下にあった。国立博物館の所有ながら、住人がいるようだ。そういえば、頭のずっと上に厚い藁の庇が一米も張り出しているような、この豪壮な農家の軒下に赤い花がちんまりと植わった鉢いくつか並んでいるのにも気がついた。戻ると、さっきは見えなかった中年の女が土間の入口にいたので声をかけた。母屋が立派なことを言うと、頷いて、昔は周りが田畑で静かだったことをぼそぼそと話した。松永家に縁のあるご家族かと聞いたが、違った。建物の保全業者の関係者に過ぎないらしい。閉園時間を過ぎた訪問者には、もういて欲しくないようだったが、半ば強引にスケッチをしたいと申し出た。女は家の横手の入口はずっと開いているので、そこから出るとよい、と教えてくれた。

寒い二月の曇空に、見上げるような藁屋根だった。白壁は縦に入った細い飾り柱と煙抜きの窓と横木が、農家にしては繊細な程の印象を与えるように造作されていた。だが、この母家の巨大な空間と、東大寺ゆかりの古材を使った瀟洒な離れと、粋な茶室を満たす人物は既になく、建物は手入れされていたが既にして廃屋であり、車の走る轟々という音が樹々の間を埋め尽くしていた。

(付け加えるなら、柳瀬山荘は松永安左衛門が戦時中に住んでいた住宅だ)

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青梅まで(2002年3月某日、目的地まで10時間)

多摩川住宅の手前から土手の遊歩道に上がる。桜はもはや七分咲き、土手の上から眺める花は少し色がきつい。砂利の道は直ぐに舗装敷きとなって調布に入ったことがわかる。調布の道は何度も歩いた道だ。 京王線の鉄橋をくぐり、鶴川街道の橋もくぐりぬけると府中に入る。押立町の有料道路の橋を過ぎて、南部線もくぐると間もなく読売新聞の印刷所と多摩郵便局の二つの大きなビルが並んでいる。直ぐに鎌倉街道の関戸橋のたもとに着いて初めて道路を横断することになる。府中の道、約二里半は、便所も整備されているので、歩きやすい。

四谷を過ぎると、道は国立に入る。国立は川沿いの遊歩道が整備されていない。バラックにような民家の間を抜けていくと、半里ほどで、立川へと入る。立川では多摩川の支流沿いに作られたいわゆる水辺の道を行く。両側に桜が植えられた散歩道である。しかし、川ではない。やたらに手を加えられた上等の下水である。四半里も行かない内に下水の本性が現れて、コンクリで固められた排水路に出るので、道を新奥多摩街道にとる。ここは昭島である。

奥多摩街道はやたらとダンプの往来が激しい。規制されているせいか、荷台に土砂を山のように積み上げた車は見当たらないが、すりきり一杯のダンプが連なって走っている。産廃が都市から山に排出されているのだ。新奥多摩街道と奥多摩街道は宮沢で交わって両者は静脈のようにもつれ合いながら山に向かう。川に近い方の奥多摩街道のところどころに、昔の街道の道筋が残っている。右に左にわずかにうねりながら道はある。両側のところどころに旧家らしい建物が残っている。静かで歩きやすく楽しい道だ。だが、気持ちよさは続かず、また騒音と黒煙をかぶるのを我慢する必要がある。福生の手前には拝島大師がある。古い寺なのだが、建物は新しい。大師の彫った像が安置されているという。

一里と四半里ほどで福生に入る。離れて居た多摩川沿いの道がところどころ整備されている。福生の最初の町は熊川であるが、ここに石川酒造がある。多摩自慢の他に地のビールがある。蔵を改造したレストランで一杯。多摩川の川幅もせばまってきた。一里の道を歩いて、羽村に入る。市の境から四半里ほどで羽村の堰に着く。堰で受け止められた多摩川の水の半分ほども玉川上水へと流れ込んでいるのを取り入れ口の上の欄干から見ることができる。多摩川の水は青白く、堂々としている。水を覗き込む白いヘルメットをかむった水道局の職員を従えるばかりの勢いで、上水は盛り上がりつつ流れ込む。

堰を過ぎたあたりから、街道は川から高度をとるように続いている。道筋に由緒ある禅寺の山門は室町のものだと、案内の板に書かれている。一里足らずで青梅に至る。青梅の手前は坂になっていて、一気に台地へと上がる。地形からみてここは多摩川の古い扇状地であろう。時を経て、多摩川が左岸の土をえぐり、深い川筋を作ったと思われる。今の青梅の駅は扇の要の位置からは、少し奥にありすぎる。東青梅、青梅市役所のあたりが中心地と見える。

青梅駅の近く、住吉神社で終点とする。急な石段を昇ったところに立派な社がある。街道をはさんで反対側の和菓子屋、道味で白羊羹を土産に買った。町のところどころに昔の映画看板が掲げられている。ノスタルジーだけが町の売り物か。赤い丸提灯の軒にぶら下がる、仕舞た屋のようだが、まだやめていないとんかつ屋でビールを一本飲んで終いとした。

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新井薬師(2002年4月某日、目的地まで4時間)

新宿西口を出て、北に向かって適当に歩く。今日の目的地は落合付近だ。時間も遅いし、曇だからだ。間もなく大久保通りに出るので左折した。すぐに中野区に入る。宮下という交差点に出たので、周りを見回すと、氷川神社があった。本庄大将の揮毫になるという石塔がたっている。なかなか立派な神社で昔は、祭日に御輿や山車が出て大いに賑わったとされているが、陸軍に係わり過ぎたせいか今は少し寂しい。宮下から山手通りを北上して東中野の駅を過ぎ、早稲田通りに出たところで左折する。

中野に入る前に、薬師柳通りというのがあったので、右折する。この道、新井薬師の参道に繋がっている。新井薬師は梅照院が本当の名前だ。如何にも昔からの薬師だから、落ち着いた所だ。線香をたいてから、お土産にめぐすりの木茶を買った。

新井薬師を出て、中野通りを北に進むと、妙正寺川にかかる橋のたもとに哲学堂公園がある。東洋大学の創立者である井上了円が作った庭園だ。庭園に建ち並ぶ建物の名前がおもしろいので、書き留めたい。最初にかの博士が建てたのが四聖堂で孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀っているのだという。これに引き続いて、大真面目にあるいは悪のりして、建てたのが、まず、哲理門だ。右に天狗、左に幽霊が置いてある。それからどくろ庵、鬼神窟、絶対城、宇宙館、無尽蔵、道の途中の坂や橋には、経験坂、演繹坂、理想橋、概念橋、等というのがある。この場所は少し高台になっているので、全体が時空岡だ。出口は常識門と名付けられている。

さて哲学堂を出てまた歩き始めたのだが、雨がひどくなってきた。傘の用意はなかったので、バスで池袋に向かった。

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金杉通り(2003年2月某日、目的地まで0.5時間)

日光街道の始まり、金杉通りは風情ある街との評判を聞いて、寒い午後ではあったが鴬谷を降りた。山手線を跨ぐ陸橋を渡り、言問通りを横切って下谷と根岸を分けているのが金杉通りだ。

確かに昔ながらの商店が二三軒散じ見られるものの、通りの幅が広いせいか休日で人通りのないせいか、それとも空が暗いせいか、やたらの寒さに身が凍みる。通りの端までたどってみたがたまらず引き返して見つけておいた宝泉湯に飛び込んだ。この銭湯、森の湯と称してにごり湯を別室にガラス戸で区切ってあるところがほほえましい。

やっと温まったので鴬谷の駅に引き返した。陸橋の手前左手のビル、上に生バンド付きのダンスホールがあるらしい。今日は休みだが普段の様子が入り口のビデオに流れている。妙齢のおばさんが何人も何人も楽しそうにくるくると廻り踊って居た。駅に戻って、御免そばの暖簾をくぐり、せいろとおかんを頼んで締めくくりとした。

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武蔵小山へ(2003年8月某日、目的地まで4時間)

武蔵小山の商店街がたいそう賑やかだと聞いて、腰痛あがりの身にも丁度よさそうな距離なので出かけた。いつもの通り、世田谷通りを環八に出てから、今回は上用賀を通って馬事公園の脇を通る道を選んだ。この辺り住宅街なのにところどころ畑が残っていて、道の脇で苦瓜を作っているのを見つけた。馬事公園の手前では農大の実験農場も見つけた。一見、草だらけの畑に見える。馬事公園の覆馬場(おおいばば:ものの本によると屋根のついた馬場のことだ)の角を曲って桜新町へ。

桜新町はいつも車で通り過ぎることが多いのだけれど、歩くと通りの店を一軒一軒覗いて歩ける所が佳い。早速チョコレート専門店を見つけた。買い求めるのは次の機会として246に出て、駒澤の交差点を右に曲がり、駒澤公園の中を突っ切って駒澤通りに出ることにした。今年は夏がなかったので残暑でも逃したものを取り戻した気がする。暑いのもよし、公園に入って木陰のベンチで一休み、頭に白いものも混じった青年が道に赤いコーンを並べてインラインのローラースケートを練習するのを見ながら握り飯を食べる。ローラースケートは、中年男に一番似合わないスポーツかも知れない。実に格好が悪い。

ところで握り飯で思い出した。長い散歩をしていて体得したのだが、歩いて腹が減った時、昼飯にトンカツや天丼などの油物は合わないようだ。スポーツ医学の教えるとおり、ここはカーボンリッチの食事、簡単に言えば握り飯なんだが、を軽く取る方が具合よいように思える。ついでながら、唄おうという時に緊張で喉が渇いたからと云って、烏龍茶を飲むのはまずいと聞いた。喉がねばつくような感じになるのだそうだ。日本茶もますます喉が渇くのだと、結局のところ普通の水がよいのだという。

さて、ひと休みしたのでまた歩き始める。公園を出て、駒澤通りを進む。環七にぶつかったら南に向かって下る。環七にぶつかる前の少し地形の低くなった所、左側にキャトルという洋菓子店がある。気になってはいたが素通りした。調べたらプリンが美味しいのだとか。環七を下り、間もなく左に折れて、目黒区の南と碑文谷の間を通る道に入る。

すぐに碑文谷八幡の脇に出るので取り敢えず参拝。広い敷地で、ここから立合川が流れていたのだというが、今は無惨にも暗渠になってしまっている。罪滅ぼしのつもりか、暗渠の上に土を盛って緑道にしており、昔の橋の名前だけがところどころに残っている。東京周辺を歩き回ると多くの川が暗渠になったり、護岸工事で排水路にされてしまっているのに出くわす。「千と千尋の神隠し」を私は川の神の物語とみている。ただし、人間と川の間で結論はまだ出ていない。ゴミだらけにされた名のある川の神は、よき哉、といって去るし、ニギハヤミ コハクヌシノミコトは人間の都合で埋め立てられるという、ひどいことになっているにも係わらず人間を助けるのだが、暗渠にされた立合川はどうなるのだろうか、その内に復讐されるんじゃなかろうか。立合川の上を歩きながら考えた。百年後、資源の枯渇した時代にこの道はあるだろうか、五百年後、川はまた地表を流れているだろうかと。

考えているうちに面倒になり、足も疲れてきたので、西小山で見つけた銭湯、富士湯に入った。それからぶらぶら歩いて目的地、武蔵小山に着いて、駅の南口から延々と続くアーケード街に途中で飽きて、戻った。駅前の焼き鳥屋は持ち帰りの店なのだが、立って飲むこともできる。ビールで喉を潤して今日の散歩はおしまい。

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三軒茶屋で銀座のさわり(2004年7月某日、目的地まで1時間)

三軒茶屋は、246号線沿いに歩いて、都心に出る一番の近道なので、何度も通っている割合にはじっくりと見た事がなかった。その日は暑かった、今年の7月は史上最高の高温日が記録された月だったので、とにかく暑かった。今更、歩いているうちに熱中症、で倒れる、というのも芸がないので、今回は小田急線の豪徳寺で世田谷線に乗り換え、三軒茶屋へと向かった。

この世田谷線、ほんの少し前まで冷房車はなかったのに、車両も新しく、冷房完備の都会の電車となっている。運賃は現在のところ130円、全線、一律だ。豪徳寺から北に向かうと、松原を経て終点の下高井戸にすぐ、なのだが、三軒茶屋へは、宮の下、上町、松陰神社前、若林、西太子堂、という何度か歩き回った街を、急カーブをゆっくりと回りながら、あるいは緩やかなアップダウンを繰り返して、ガッタンゴー、と進んでいく。割合に時間がかかる。

暑い盛りの三軒茶屋に着いて、昼時も少し過ぎたので、この前通り過ぎた時に、一寸気になっていた、中華麺の店に入った。万豚記と書いてワンツーチー、と呼ぶらしい。店は、電車を降りて、世田谷通りを渡り、玉川通りとの交差点を駒沢方面に百米程戻ったところにある。世田谷通りから玉川通りに行くには、交差点まで戻らず、二つの通りと交差点のつくる三角形のチーズのような、このごたごたした界隈に、孔を開けたような、仲見世通りを通っていくとよい。

この店が何故、気になったのかを思えば、通りに向かって開けっぴろげになっていて、安上がりの造作が、タイの中華街にあるような店だったからだ。黒ゴマの担々麺を食べてみた。泥臭いと言った方がよいくらいの濃いスープで、麻(マー)の味に舌が痺れた。麺の量が少ない気がしたが、まあまあだろう。

腹はくちくなったが、相変わらず暑い、たまらず近くに見つけた漫画喫茶に飛び込んだ。大体のところ、漫画喫茶インターネット付き、というのは、薄汚れて、何とはなしに入るのが躊躇われるような場所だ。ここもむしろきれいとは言えないスペースなのだが、机が図書館の閲覧室のように縦に並んだコーナーがあるので、勉強しているフリで漫画を読む、という訳の分からない雰囲気を醸し出している。

セルフサービスで冷たい飲み物を取って、椅子に戻る途中に、倉科遼/和気一作の「女帝」全24巻があった。このコンビの漫画は、週刊漫画TIMES、というマイナー気味の漫画誌に掲載されているのだが、サラリーマンオヤジには、「課長 島耕作」と同じ位に必読だと、言う話がある、かどうか定かではない。一説には「ネオン劇画」というジャンルがあって、倉科遼は、そのスターダムに君臨するのだと、する記事も目にしたことがある。ネオンの点いているような場所には、只の一度も足を踏み入れたことがない、というS氏に説明するとすれば、ネオン劇画とは、ネオンサインの咲き乱れる一帯に、生活の糧を得ている人物群を描く劇画のことを言うのだ、そうだ。

この漫画、読んでいるところを妻子の目にとまってしまうのは、所々に挟まったあの絵の故に、多いに憚られて、もし見つかってしまったら、その後、内容について如何に力説しても当分の間、軽蔑の視線をぶつけられる、という類いの漫画である、と言える。さわりを述べれば、熊本に女手一つで育った女が、とんでもない大人脈を作り上げて、銀座のママになる、という話なのだが、私には、父親と娘の愛情物語、だと思えた。大時代とでもアナクロとでもよべようが、クサイ伏線の数々が最終巻で一つになって、大団円の父親の演説には、思わず私の目頭が、暑く、ではなかった、熱くなってしまった。

世の中には「ネオン劇画」の他に、「ネオン随筆」と呼ぶべき(私が今、造ったのだが)エッセー群があって、銀座ママが教えるサラリーマンのマナーだの、祇園おかみの人生だの、数え上げれば結構な数になる。どれもこれも、そういった場所に潜り込んだことのない平サラリーマンに対して、「ザマミロ、知らんだろ」というのをベースに、蘊蓄を垂れるものなのだが、それなりに面白いので、良く読む。自虐的ではあるが。

というわけで、三軒茶屋で銀座のさわりを味わった、という今日の散歩だった。

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野川に縄文を訪ねる(2006年7月23日、目的地まで4時間)

前にも紹介したが、中沢新一の「アースダイバー」では、縄文海進の時代、現在の東京の地が、リアス式海岸を思わすような入り組んだ入り江を多数抱える、複雑な地形であったことから、作者の想像が広がっている。確かにそのような眼で見れば、東京の地形の面白さがより時空間的に四次元的に分かってくる。時間で一次元、空間で三次元ということだ。わたしの住んでいるあたりにも同じことが言えて、多摩川とその支流は、その地形に石器時代に遡る歴史を蔵しているのだ。

というわけで、今日は多摩川の支流、野川を遡ってみることにした。野川は二子玉川で多摩川に合流するのだが、その上流は意外に遠くで、半日程度では到着できないかも知れない。ま、歩き始めることとするか。世田谷通りから野川に沿った歩道に入る。このあたり、野川の川幅は二米程で、梅雨のような降ったり止んだりの、このところの天気のせいで、普段より水は多いようだ。

歩き始めて間もなく、狛江と調布の市境あたり、歩道に大きな望遠レンズ付きのカメラを据えて川面を狙っている人が何人もいる。しきりにカメラを確認しているので、話しかけるのも躊躇われる。こっちも立ち止まって、望遠レンズが狙っているあたりを眺めることとした。数分程した時、いきなり対岸の叢から鮮やかな青色の鳥が飛び立って、川面を下流に飛んで行った。カワセミだ。確かに川蝉だけにそのブーンという音の聞こえそうな、素早い羽ばたき方が蝉に似ている。「あれですか、ひなでも育ててるんでしょうか?」近くで同じく川を眺めている人に尋ねると、「いや、あれはひなの大きくなったやつだね。親鳥とひなが二羽いるんだ」、「このあたりで孵ったんですかね」、「このあたりは蛇がいるからね、もっと上流で孵って、こっちに下ってきたんだ」。なるほどね、さすがによく知ってます。今日は曇りだけれど、天気がよければ、もっと羽の青が鮮やかに見えるんだろう、と想像する。野川もまだゴミがあちこちに浮かんでいるけれど、川蝉の住める位にはきれいになったのだと思われる。縄文時代はどうであったか。今日は、眼に映る景色と、縄文時代にあったであろう景色を重ね合わせて歩く趣向だ。

空気は相変わらず蒸し暑く、川沿いに歩いているのに涼しい感じがしない。もちろん縄文時代にもこんな天気があった筈で、湿気の多い重い空気は縄文と現代を幾分か近づけているような気がする。甲州街道を越え、中央道をくぐり抜けたあたりから、幾分、両岸の地形が平ではなくなって、丘が現れる。縄文海進のころはもっと川幅も広く、流れも緩やかだった筈で、丘に住む縄文人が川を眺めて暮らしていたに違いない。実際に野川沿いには縄文の遺跡が多数残っている。このあたり、左岸は、羽根沢台遺跡、古八幡遺跡、天文台構内遺跡、野水橋遺跡、と縄文遺跡のオンパレードだ。大沢に入る手前で野川の左岸が迫っている。ちょっとした高台で、縄文人でなくとも墓場にしたいような場所だ。川筋から離れてこの高台に向かうことにした。

川沿いの住宅を二三軒過ぎるとすぐに崖になっている。崖には急な石段が作られていて、高台の上に通じているらしい。面妖なのは、この石段真ん中が手すりで区切られている。右を登っていくと左の階段と離れて、一軒家があり、さらに登ると崖ぎりぎりに小さな社があった。あきらかに高台の上から追い出されてきたものと見える。両手で抱えられるくらいの社なのに廃絶もされないのは、未だ、何かの力があるのだ。少なくともこの社をここに移した人間にとって。引き返して左の石段を登り直すと高台の上に出た。林に囲まれた陰気な場所に小さな公園があった。遊具が苔むしていて、ああ、確かにさっきの小さな社は元々、この場所にあったのだと。そして縄文からここはそういう場所なんだと。現在、ここはどんぐり山という、しょうもない名前がついていて、老人ホームがこの公園の反対側に建っている。昔は高射砲陣地だったという。

川筋に戻ってすぐに、対岸の右岸に水車が見えた。橋を渡って行ってみることにした。近くに行くとさっき見えた水車は、いわば看板で、今は三鷹市が管理する水車があるという矢印があった。矢印に導かれてすぐに、茅葺きの大きな農家があった。この日、市のボランティアが数人いて、ぼんやりとまわりを眺めているこちらに「ご説明しましょうか?」ということなので、「はー、お願いします」と答えて、案内してもらうことにする。話によれば、数年前までこの家の当主は製粉業をしていて、もちろんその頃には水車は使っていなかったのだが、引退を機に建物もろとも三鷹市に寄贈したのだとか。建物の中に下掛けの大きな水車があって、いわばこれがメインエンジンだ。ここから歯車で数カ所の臼に力が伝達されることになっている。「ははー成る程、この材料は何なんですか?」ボランティアの中年男性が教えてくれる。「白樫とけやきですね。ほら、けやきは庭にもあるでしょ。補修のためにいつも材料は用意してあったらしいですよ。歯車は、歯車じゃなくて万力と呼ぶんですが、全部型紙があって、すり減ると部分部分を交換するようになってるんです」「はー、昔の人は偉いもんだね」てなことを話しながら、ちょいと社会勉強をしてみた。

野川に戻って歩き始める。間もなく川岸がすりばちのようにゆるやかになって、野川の両側はもう野川公園となった。広い公園だが、何も感じないな。野川の川べりで感じられた人間の雰囲気がないのだ。そんなところで、公園の水飲み場で水を補給し、用も足してから、また川に戻る。公園を出て、野川が左にぐっと曲がったあたりが、平に開けていて、看板によれば平安時代からの田んぼの跡、とあった。なるほどね。眼に映る景色から電柱と道路とコンクリートを消しされば、確かに田が見える。このあたり周囲はゆるやかな武蔵野の丘だから、水利の用水がない以上、ここに田を作るしかないだろう。さっきの水車の家の話でも、製粉は麦が主体だったと言っていたな。小金井街道を過ぎたあたりから、川幅はぐっと狭くなって、木々や叢に覆われ、水面は見えない。少し薄暗くなってきた。前原小学校は野川にコンクリートでふたをした上がグランドになっているな。どういう設計なんだか。川と下水を間違えている土木屋の設計に違いない。さて、この調子では源流まで行きつけないな。新小金井街道にぶつかったところでバスに乗り、武蔵小金井駅に向かった。

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2008年京都夏の旅(2008年8月16-22日)

おいおい百件の内、京都に一ヶ月の下宿、を予定していたが、諸般の事情により、一週間の旅に変更した。夏期休暇があったので、これと年休を連結させて6泊7日の一人旅とした(何年も前から根回しをしておいたので、家人から異議が申し立てられることは、なかった、というより各自が忙しくて余り興味を持たれていない、というのが本当のところだと思われる)。


8月16日(土)

関ヶ原は通る度に雪か雨で、日本海の気流がここまでやってくる場所。新幹線の窓に流れる雨粒が今日の天気を占う。今の暗い空が、西の雲のあたりで切れて、わずかに明るくなっている。大丈夫だよ、夕方には晴れるね。今日は五山の送り火があの山の中腹で焚かれる日である。駅で乗ったバスを東山で降りて、去年の記憶の道をたどれば、糸巻きの糸を巻き戻すように、道はわたしを導いて、またその宿屋にやってきた。宿に荷物を解き、出された冷たい麦茶を飲みながら、新幹線の混み具合やら、東京の暑さの具合やら、あれこれと、世間話をしばらく続ける。

暗くなったので、バスで百万遍町の交差点まで行った。去年もここら辺から、大文字の火がよく見えた。もう、見物人が集まってきていたが、腕時計を確かめたら、ひと風呂浴びる時間があったので、交差点と目と鼻の近さにある銭湯の暖簾をくぐった。京都の銭湯もつい先頃、値上げされて410円である。

この時間、昼間のアスファルトの熱気はすっかり無くなって、ホウッと肩の力が抜ける。もう、かなりの人出になっていて、警察官が、横道からたまに出てくる車のために、人並みの整理を続けている。濡れタオルで顔や首筋を拭うと、そこが夜風に冷やされて気持ちが好い。その時、信号機の向うに見える暗い山肌で何かが光った。ほら、火が着いたよ。後ろのアベックの男の方の声に、目をこらすと、ちらちらと赤い火が見えた。火はゆるやかに伸びていって、覚えていたより、ずっと大きな、火でできた大の文字が、今は黒い山の斜面に現れた。送り火は、斜面から僅かに浮きあがっているようで、小さく揺れて、聞こえもしないのに、音を立てて燃え盛っているようだ。思いだす友の顔は、去年はなみだぐむ程に若々しかったのに、今年はもう思い出になっていた。

大の火が薄れる前に、こっちは踵を返して、去年の同じ日に酒を飲んだ、小料理屋を探すことにした。七、八人も入れば一杯の小体な店なのに、年配の夫婦連れでうまっていた。ハモのおとし、ハモの天ぷら、隣りの客の頼んだ、ハモの付け焼きも旨そうだったので、そいつも。隣りの先客の紗を着こなした女と、二言、三言交わす内、どう気に入ってくれたものか、コップに、田酒を注いでくれた。持ち込んでいたらしい、三国の高級そうなウニも開けて、食えと言う。この先客の女性、堅気には見えなくて、後で店の主人に聞いたら、骨董商だと言う。得心した。


8月17日(日)

まだ朝の六時なのに、もう暑い。でも東京よりはましか。普段は朝飯前に、こんなに朝早く出かける習いは私にはない。なぜに出かけたかと云うと、知恩院の朝の法話を聞くためだ。法話というのは、早い話、坊主の説教のことなのだが、もう少しくだけたニュアンスがある。このところ、知恩院の話は耳にする度に、なぜか心に残っていて、京都に行く機会があれば、朝参りをしてみたいと、殊勝にも思っていたのだ。さて、宿のある石塀小路を出て、高台寺の下の石畳の道を辿り、円山公園を抜け、知恩院南門をくぐって巨大な山門前へ。石段を上ったら急なもので、息が切れた。普通は右手の緩やかな坂道を上がるようなのだが。やっと着いた本堂では、残念ながら、もう朝の法話が終わるところだった。また明日ということで。知恩院の石段を降りて、丸山公園の隣りが大谷祖廟で、ここにもお参りすることとした。家の寺は、お東だから、まあ義務と言えなくもない。ついでに、高台寺の朝参りも済ました。東山は石段を上がったり下ったり、足腰の鍛錬になるな。

朝飯は、飯をお代わりしてしっかり食べた。食べ終えてもまだ八時だったが、早速、智積院に向かう。長谷川等伯を見る前に、庭を望む座敷に座って、眺めることにした。静かだ。池に流れ落ちる水の音と、蝉の声しかしない。静かだ。広い座敷に私しかいない。十分も経ったころ、やっと次の客がやってきたので、等伯の絵のある建物に向かう。

薄暗い中に置かれているので、最初はこんなものだったかと、一寸がっかりした。だが、じっくりと見る内、わかって来た。楓、金の雲、萩の葉の前後の配置が完璧なのだ。単眼鏡も取り出して、細部を観察すると、細かな線にも弛みがない。一時間も見続けていたろうか。こういうのを近頃は「ガン見」と言うらしい。ガンガン見るから、だそうで、甥に教わった。もちろん、等伯の隣が、彼の二十六で亡くなった息子の桜図で、等伯の気持ちを思うとこみ上げるものがある。

その後、国立博物館に廻ったのだが、もう疲れてしまっていた。 そう云えば、博物館の火焔土器が強烈な印象だった。土器の縁の造形が、渦を三次元的に組み合わせたようになっていて、「こいつは参考にしたい」と思わせた。後で、博物館のホームページを調べたが、この土器については何の情報も得られなかった。


8月18日(月)

昨日の例があったので、朝の五時半に宿の出口の閂を開けて外へでた。清々しい空気だ。まだ誰も歩いていない石畳の道を、円山公園から知恩院へ。もうお勤めは始まっていたが、六時からの法話が聴けた。田舎の娘が町医者の家に出て、御馳走を前に、家族を思って泣いたという話しは、古典的なクサい話ゆえ、じんと来た。法話は各地の寺の坊主が、週替わりで勤めているようだ。毎朝同じ話はしていないようなので、なかなか準備が大変そうに思われる。終った足で、大谷御廟にお参りし、またもついでに、高台寺が朝詣りの人のために開いているので寄った。

腹減らしをしたので、朝飯を二杯、しっかり食べて出発する。まず、直ぐ近くの大雲院が特別公開をしているので、参拝した。ここの目玉は、この土地の持ち主だった、大倉財閥の当主が趣味で建てた祇園閣なる、三十米ほど近くもあるコンクリート製楼閣で、至極見晴しが良い。京都市内全域が眺められる。楼を降りると、下の本堂で本尊を前に、御詠歌を十人ばかりの婦人連が歌っていた。後で入り口で聞いたところによれば、この寺の檀家ではなく、真言宗のご詠歌の講中が練習を兼ねているのだという。老婆の他に、まだ若い主婦らしきのも居て、鈴を鳴らし乍ら歌っていた。千手観音の賛、花の台に、のあたりを聞いて、胸に来るものがあり、泪がこぼれた。こちらに来た途端に、やたらとジンときたり、胸にきたり、目頭が熱くなったりしているが、余程、普段の悪徳が積もっていたものとみえる。浄化される保証は全然ないのだが。後で調べたら、西国三十三観音霊場、第五番、葛井寺御詠歌に「まいるより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」というのがあったが、これが歌われていたものと同一だったかどうかは覚えていない。

実は、今回京都に来る予定を立てた後で、美術手帳の2008年6月号に、京都アート探訪特集があって、購入しておいたのだった。この後、記事にあった、嵯峨の釈迦堂(清涼寺)に向かう。嵯峨野は、東山の反対側なので、どう行くか、少し考えた。ここで、なかなかiPhoneのブラウザで見つけたバス路線図が役立った。バスで四条大宮へ、そこから嵐山線で嵐山へ向かうという寸法だ。嵐山は、遥か昔の修学旅行の時に数人のグループで訪ねた覚えがある。なぜわざわざ京都市内を離れて、嵐山にまで行かねばならなかったのか、皆目思い起こすことができないが、山出しの高校生であった故、寺社や歴史に疎く、ただ自然のある場所に行きたかっただけなのかも知れない。

嵐山駅から清涼寺は少し距離があって、iPhoneのGPSで方向を確かめながら向かう。この日はひたすら暑く、アスファルト道を陽に灼かれながら歩くのは、私とてこたえる。寺に着くとこの暑いのに喪服を着た人が大勢出てきたところであった。聞けば、地元の市議会議員だった人の葬儀が終わったばかりだという。本堂に入れば、さすがに涼しい。この寺の本尊は立ち姿の釈迦像で、宋に渡った僧が、中国にあったインド伝来と云われる釈迦像を、現地で模刻させたものだ。後で説明を聞いたが、江戸時代にこの像が日本各地を出開帳ということで巡り、大いに人気を集めたのだという。胎内に五臓六腑の絹製の模型が入っていた、ということでも注目されたのだと云う。ただ、日本式の仏像を見慣れた眼からは、この中国式の像はあまり立派には見えないし、五臓六腑やら脳を表す鏡が入っている、なんて話を聞くと、如何にも説明的で、あまり感心できなかった。

おもしろいのはこれからで、寺に霊宝館と呼ぶ倉庫があって、公開されている。なにがしかの拝観料を払って、中に入って驚いた。実に堂々たる平安期の阿弥陀三尊像が、何の荘厳もなく置いてあって、その反対側にはこれも平安期の獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩があり、次の間には、十大弟子像、四天王立像、嘗て羅城門にあったと云われる毘沙門天などが目白押しで、いや、実に立派だ。

なぜ、これ程の仏像群が冷遇されているかと云うと、元々はこの寺が貴族の別荘を兼ねた寺で棲霞寺と称し、阿弥陀三尊像が本尊だったのだ。その後、招来した立ち姿の釈迦像のための釈迦堂が、棲霞寺に付随して建てられたのだと云う。ところが、この招来した釈迦象の人気が高まって、浄土宗の色彩が強まるとともに主客が転倒し、清涼寺(釈迦堂)と称するようになり、江戸期の釈迦像の出開帳の賽銭を巡って、浄土宗系の本寺と真言宗系の子院が争うまでになったのだと云う。その後明治維新の時に真言宗系の子院は、大覚寺に合併されて出ていったので、寺は完全に浄土宗となって、真言宗系の仏像群は行き場をなくした、という訳なのだ。

こうして、江戸期の現世ご利益信仰を笑うのは、たやすいことなのだが、平安鎌倉期の悲惨な世相を考えると、話はそう簡単ではない。この後も、江戸期のいかにも安易に作られた仏像が、平安鎌倉期の仏像と併置されているところを、あちこちで見ることになるのだが、同じような感慨を得た。


8月19日(火)

昨日、知恩院に着いた時には、もうお参りが始まっていたので、今度は、朝の五時に宿を出た。今日は少し暑し。着くと、本堂にはまだ誰もいなくて、阿弥陀堂から木魚を叩く音が聴こえたので、堂に上がってみると、在家の信者らしきが、揃って木魚を叩いていた。堂の端に座っていると、住職と、数人の僧侶が出て来て、経を唱えた。数人の地方からの参詣者らしいグループとその先達も加わった。間もなく経が終わって、その先達が、次に本堂で回向があると言う。成る程、それで弔うところ、◯◯の先祖、云々が続くのかと分った。法話は昨日とおなじ、大阪の寺から来ている若手の僧侶だった。中々、上手な話しであった。

今朝も朝飯を二杯食べてから、市立美術館に向かう。企画の方向のよく分からない展示だったが、好きな菊池契月が何点も出ていたのがよかった。この後、近代美術館に回ったけれど感心できなかった。今日は三条通り沿いに転々とあるギャラリーを見て歩く予定にしていたのだが、殆どが夏休み中で、ぱっとしなかった。若仲があるというので楽しみにしていた細見美術館は、通常展がなくって特別展だけだというので、チケットを買おうとした金を引っ込めた。

この二三日、美術館近くの京都メッセで日教組の大会があるという。なぜ分かったかと言うと、例のごとく街宣車が繰り出していたからだ。彼らが大音量のスピーカーで叫ぶものだから、どこまで離れても気落ちするような声が耳に這い入ってくる。ペットボトルを右手に持って、喉の乾きをだましつつ、三条通りに戻った。三条通り沿いにある、例の美術手帳に紹介されていた画廊を訪ね廻ろうとしたら、どれもこれも夏休みであって、またも失望した。日射しはカンカン照りで、ひたすら暑い、半ば自棄になって、三条通りをどんどんと西に歩く、途中、Duce mixビルというシャレた小物を売っている店の集まったのが眼に入った。同じビルにカフェが入っていたので一休み。

一休みしたカフェの隣が京都文化博物館で、ここには期待したいと思っていたのだが、はずれだった。永樂茶碗の十六代目の「源氏物語五十四帖」にちなんだ連作、というのが目玉だったが、無理矢理に五十四の作品を作った、という気がした。永楽家の技術の粋を尽くした、というのだが、技術は見せるものではなく、気持ちを表すための手だてではないのか。

東大路通りに戻って、宿に向かってとぼとぼと歩く。知恩院前で、例の一澤帆布店と一澤信三郎帆布が並んでいる前を通る。一澤帆布店に入る。こちらが銀行勤めの長男が裁判で勝ち取った店か。職人に全て逃げられて、新たに雇った職人に従来のデザインで作らせた帆布のバッグの店。そんなに悪くはないように思う。次にすぐ近くの一澤信三郎帆布に入った。一澤帆布店を全国に知らしめた次男の店。素材や金具はこちらが優れているようだし、世界のカバンと名付けられたショルダーが気に入った。だが、11,550 円出して買うかどうかで迷って、またそのうちに、ということとした。そのうちが、何時かは今のところ不明だ。


8月20日(水)

今朝は五時十五分に宿を出て、本堂で回向の始まる時間に合わせた。今日も元気だ、朝飯がうまい。お盆がすぎたので、おかずの精進も終わって、サケの切り身が付いた。

今日は、昨日までのようなあてはない。まず、毎朝お世話になっている、知恩院の庭から見ることとした。座敷からは良くみえるものと思われるが、観光客にはシャットアウトされている。法然上人の廟をお参りして、北方向に向かうこととした。

まず直ぐ隣りの青蓮院門跡、座敷から伸びやかな庭がゆっくりと眺められた。親鸞上人が得度した場所で、蓮如の他、代々の浄土真宗の門主はここで得度した、というような話が案内パンフレットにあった。今上天皇が訪れた時の写真もあり、また庭に面した座敷に置いてあった、観光客用の雑記帳に、私は皇宮警察の職員で云々、もあって、さすがに皇室ゆかりの門跡の名は伊達ではない。続いて南禅寺へ。哲学の道を闇雲に歩いて銀閣寺までというつもりだ。だがついでなので拝観した。狩野永徳と元信の襖絵が幾つも有ったので、またまた、単眼鏡を出してガン見した。等伯親子より落つるのではないか。お庭に珍しく、さるすべりの紅い花がさいていて、よかった。

哲学の道は僅か1.8キロメートルで、途中に有った「吾は吾が道を行く」という、実に詰まらない西田幾多郎の碑の如く、軟弱極まり無い。京大の哲学一派は、以前にも書いたように本当は大したことがないのかも。ところで、やっと到着した銀閣寺は、楼の屋根の葺き替え中で銀砂の庭も迫力がは五割引きだった。さらに、無闇に動こうとして、適当にバスに乗って、路線図を見たら、昨日行こうと思っていた、千本のゑんま堂に行けると分ったので、その方針に決定。

バスを銀閣寺前で乗ると千本今出川まで一本で行ける。ここから、北にバス停二つ分程歩けば、千本ゑんま堂に行けるとわかった。で、千本今出川から今出川通りを西に進むと、次のバス停が上七軒でその次が北野天満宮というわけだ。千本今出川のバス停を降りて、北へ向かう。この辺りは西陣で、街の雰囲気がいわゆる京都風と違う。人間も違うようだった。要するに下町なのだ。しかし、下町にある雑然とした感じがしないのだ。通りには、饅頭屋、洋品屋、八百屋、魚屋、漬け物屋、総菜屋などが軒を並べている。小さな八百屋にはみどり茄子、などというものが売られているし、饅頭屋には、赤飯、大福などと一緒に、おけそく、なる小さな餅が売られている。お供え用らしい。

ゑんま堂に着くと、小さなと言って良いくらいの本堂があって、幟の立て具合や盆踊りの準備をしているところや、ごたごたとしているところが、まさに下町のお堂である。入り口にテントが張ってあり、そこからゑんま堂へ導く紅白の幕が巡らしてある。観光協会の京都夏のキャンペーンに、地元ぐるみで協力しているのだとか。テントのところで拝観をお願いすると、まるで大阪人のように愛想のよい中年男が、案内してくれるという。

「ままっ、どうぞここにおすわりになって」。本堂に案内されてゑんま様の前に引き据えられると、愛想のよい中年男があれこれと説明を始めた。まず、この場所が千本と云うのは、千本塔婆から来ていて、この辺りが古くは蓮台野と呼ばれた平安時代の風葬の地であったからだという。つまり、この世とあの世の境目で、閻魔堂が置かれたのだと。ついでに云えば、東山の宿の直ぐ近くにも、六道珍皇寺という閻魔大王を祀った寺があって、その辺りが葬送の地として名高い鳥辺野である。ついでに言えば、もう一カ所が化野(あだしの)だ。

話はまだ続いて、閻魔大王の左右に控えるのが、司命と司録で、それぞれ地獄の検察官と記録読み上げ官であるという。小野篁(たかむら)の像もあって、六道珍皇寺の伝えと同じく、地獄通いの井戸を通って自由に冥界に出入りしたという小野篁は、閻魔大王とセットになっていることが多いようだ。そう言えば思い出した。下谷に小野照崎神社というのがあって、そこに祀られているのが小野篁であった。小野篁は実在の人物であり、菅原道真の例はあるにしても人間が祀られているのは、どうしてだろうと思った覚えがある。そういう訳であったか。

「それでは、ゑんま様の御開帳です」と言って、案内の男が閻魔大王の前に引いてある戸を開けた。それまで、閻魔大王の目しか見えなかったのが、大きな像が現れた。目は琥珀製とかで、ぎらりと黄色に光り、大きな口を開けている。「皆さん、ご存知でしたか?私も知らなかったんですが、なぜゑんま様が口を開けているのか」「さあー」「私もね、住職に伺ったんですがね、ゑんま様が口を開けているのは、鉄を溶かしたのを飲み込んで、もの凄い声を出しているからなんです。そうするとですね、地獄で鬼に責め苦を受けてますよね。その鬼が、ゑんま様のもの凄い声を聞いて、一瞬、責めの手を止めるんだそうです。するとね、責め苦を受けている亡者の苦しみがなくなるんだそうですよ」「はぁー、一瞬だけなんですか」「そう、一瞬だけ」。「それで、このゑんま様にお参りすると、どんな良いことあるんですかね?」「えーとですね。予めお知り合いになっておれば、本番の時にね、役立つんだそうです」「や、この前はどおも、とかですかね?」「そうです、そうです」。なるほど。

案内は続く。「こちらへどうぞ。こっちはですね。おしょろさん(お精霊さん)流しに使ってるんですよ」。これは初めて見た。京都では精霊流しに、経木を使うらしいのだが、これを流す水路をU字に作ってあるのだ。ポンプで水をこの水路に流すらしい。石積みの十重の塔もあって、紫式部の供養塔なんだという。その他にも由緒のある鐘楼や、葉の裏に文字を書いたという植物やら、関係のあるのかないのか、よく分からないような物が境内を埋めている、私好みの気楽な場所だった。「えんまさまのおめこぼし」というかき餅も売っていたのだ。これは、先ほど直接、ゑんま様に、その節のお目こぼしを(心の中で)お願いしてあったので、買わなかった。

ゑんま堂を出て、路地に入り込むとカシャンカシャン、という音が聞こえた。織機だ。西陣は衰退の危機にあるというのはよく聞く話だが、こうして路地から路地を伝って歩くと織機の音があちこちで聞こえる。そのうち、ひょっこりと出たのが千本釈迦堂で、入ってみると右手にお多福顔の女性のブロンズがある、案内板を読めば、お亀さんという信仰の対象なのだという。

ゑんま堂に行く道筋で、実は上七軒見番の位置が示されている案内板を見つけていた。上七軒と言えば、京都の五花街の一つで、西陣の盛んな時は旦那衆のお陰で栄えたのだ、という話を聞いたことがある。iPhoneのGPSが役立って難なく見番を見つけた。近くにはお茶屋が並んでいて、昼下がりでひっそりしている。通りが清楚な感じさえするのは、看板のない所為と、壁の色、屋根の色が統一されているからだ。通りをうろうろしていると、見番から若い女が出て来た。出て来たと思ったら、数メートル先のごく普通の町家にすいっと入っていった。それぞれのお茶屋には赤い提灯が下がっていて、よく見ると入り口の柱に、京都府風俗営業許可の証が打ち付けてある。お茶屋も分類から言えば風俗営業なのだろうが、もう一ひねりがあってもよいのではないか。空が暗くなってきた。横手から和服の芸者が現れた。直ぐにまた、数メートル先の別の家に入っていった。

突然、大粒の雨が落ちてきた。歌舞練場の裏手にいて、そこは大きな屋根が小路に覆いかぶさっていて、雨宿りの場所を提供してくれた。風も強くなってきた。目の前の通りを自転車の女があわてて過ぎていった。通り雨だろうということで、窓のない広い壁際に立ってぼんやりとしていた。ぼんやりしていたら、「もしもし、この傘持って行って下さいな」と声がかかった。さっき、雨の中を帰ってきて近くの家に入っていった女だ。「いや、もうすぐ止むと思うんで」「いいのよ、家に傘がいっぱいあってね、持っていって」「そうですか、それでは遠慮なく」、ということで礼を言って、傘をもらい受けた。もう少し上七軒の空気を吸っているつもりだったが、切り上げて、雨の中、北野天満宮へ。天満宮は歌舞練場の通りをはさんで反対側だ。


8月21日(木)

今朝も五時起きで、知恩院へ。五時半から阿弥陀堂で朝のお勤め、終わって本堂へ移動し回向。今日からは、 別の和尚の法話であった。五時半からの阿弥陀堂のお勤めは、その十分前くらいから、在家の信者か檀家なのか、先導する在家が念仏を唱えながら、木魚を叩き始める。阿弥陀堂の中、僧侶と在家は横木で区切られているのだが、こちら側には、最初から木魚が並べられていて、誰でも一緒に叩けるようになっている。誰でもと言っても、顔見知りになった位からがよいだろうから、大人しく端に座っていたのだが。やがて、僧侶が五、六人現れて、所定の席に着くと在家の木魚は止まる。時間通りに僧侶は、阿弥陀仏を前に朝の勤行を行い、在家はこれに合わせてお勤めを行うのだ。

本堂の回向というのは、仏説阿弥陀経を唱えた後に、法然上人の言葉の斉唱があり、その後、仏弟子に始まって、諸神、代々門主、天皇家、徳川家、昨日から信者用の宿泊所に泊まっている人の先祖代々、その他の回向が行われることだ。その後、当番制の法話が行われる、という寸法だ。かなり時間がかかる。始めから終わりまで正座を続けるのはかなり苦しい。こっちは、お経が終わったあたりで、胡座にしていたのだが。

朝のお参りを終えて、宿に帰るのが七時過ぎで、朝飯を頂くには丁度よい腹具合となる。この宿、朝に京らしいおかずの出るところが、私のお気に入りだ。今朝は、漬け物の他に、生ゆば、木綿豆腐、はんぺん、ベンガラ色の胡麻豆腐、蓮根と青唐辛子の煮付け、茄子の炊いたん、が出された。例の如くごはんのお代わりを頂いた。これで夜まで食べ物は口にしない。するとビールが美味い。

長谷川等伯の楓図は是非もう一度見たいと思った。東大路を歩いて智積院に向かった。ひんやりとした智積院の宝物館は、毎回誰も居ない。等伯親子の楓図と桜図を、ためつすがめつ眺め、堪能した。その後、座敷からお庭を眺めた。池には上から水が流れ落ちるような仕掛けになっていて、滝と称しているらしいが、蝉の声とその滝の水音が聞こえるだけである。その時、左手のあたりから鮮やかな青い羽色の鳥が飛んできて、池の手前の石に停まった。停まって、こちらに横顔を向けた。確かにカワセミで、iPhoneで証拠写真を撮ろうと思ったが、もちろんカワセミのような鳥が、一所に止まっている筈もなく、また飛び去ってしまった。青いきらきらとした羽が美しくて、思いがけない褒美をもらったような気がした。

その後、金堂にまわった。明治に焼失したので、建物もコンクリートで本尊も新しい。中では十人程の墨衣の僧侶とおそらく指導しているのであろう僧侶がいて、散華をしていた。散華というのは経を唱えながら花びらを、紙でできた花びらなのだが、散らす行だ。毎日の行なのか、修行なのかは判然としなかったが、建物は新しくとも、合掌して見守るのに十分に浄らかだった。

智積院からやって来た東福寺は敷地が広い。巨刹である。塔頭が幾つもあって、案内図で数えたら二十一寺あった。本堂と三門は巨大な建物だ。禅寺だから寺宝がないのか、谷にかかった屋根付きの橋が紅葉を観る場所として有名らしい。私も拝観料を払って渡った。方丈の庭園は昭和のものだというので、パスした。来た時と道を変えて東寺に向かう。道筋に天得院という塔頭があって、案内文を読んでみると。ふむ。慶長年間に、豊臣の恩恵を受けていた住職が、方広寺のための鐘の銘を「国家安康、君臣豊楽」としたため、家康に難癖をつけられて、一旦、寺を取り壊されたのだと云う。人の足を引っ張るためには、これ位、相手の動きを注意深く見ていなければいけないな。

さて、東寺は、歩き疲れた頃に到着した。広い境内一杯で骨董市が開かれている。古着屋多数、瀬戸物屋、金物屋、ガラス器屋、多数、中には、来年植えるための九条ネギや種ジャガイモ、手作りマサラ粉、手描き板絵の猫、なんて殆ど売れそうもないものを出している店主もあった。人並みをかき分けて、まず、金堂へ。薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩が安置されていて、手前に壇があり、香が焚かれていたので、お勤めは行われているらしい。次の建物が講堂で、例の美術手帳によると、空海の配した立体曼荼羅が構成されている。中央に大日如来を中心とする江戸期の五体の如来があって、他の像が平安期のものである。説明書を読むと中央の江戸期の五体は、しょうがなく重要文化財になったと、とれるような書き方をしてある。確かに美術的には明らかな違いがあって、時代が下る程、仏師の腕が落ちると言われても仕様がない。次が食堂で、新しい観音像が本尊であるのだが、昭和五年の火災で黒焦げになった、四天王立像もプラスチックで処理された後に置かれている。腕も焼け落ちて残りも炭になっているのだが、そのまま捨てる訳にもいかず、何かあった時に比較資料になるかも知れない、というような発想で置かれているようで、見ている方も落ち着かない。

御影堂のある一区画は、建物の高さの低いこともあって、如何にも庶民的で、昨日のゑんま堂と同じ雰囲気を漂わせている。この暑さで如何にも大変そうであったが、僧侶が護摩を焚いていたり、大きな石の亀をどういうご利益のあるものか、婆さん連が撫で回していたり、毘沙門天があったり、赤い幟がはたはたとしていたりだ。で、肝心の寺宝の入っている建物は、九月から公開とかで閉じられていた。時間はそろそろ四時、暑苦しい夕方で、さっさと宿に戻ることとした。宿に戻ってから、近くのコインランドリーで溜まっていた洗濯物を洗濯機にかけた。さて、終わったらまた、風呂屋へと行くとするか。風呂上がりに、風呂屋の角を曲がってすぐの、ぼろぼろの暖簾のかけられた、串揚げ屋に行くとするか。串揚げ屋でビールを飲みながら、串揚げを食べるとするか。「ビールとね、そうだな、ハムカツと、青とうと、しいたけと、あじと、んー、あと牛すじね」


8月22日(金)

今朝、五時に宿を出ると、空気が冷たかった。この六日間で秋の気配がやってきたのだった。知恩院の法話の間、半袖の二の腕が寒い程だった。智積院でもそうだったが、ここ知恩院でも脇の僧侶は皆、若く見える。青く頭を剃り上げた僧侶が本堂を出ていく時、薄い墨衣(すみごろも)の僧侶は角々で直角に向きを変え、背筋をのばして、流れるように去って行く。その姿は、在家の女性が心ときめかしてもおかしくはない位だ。

法話は、今朝が二回目の名古屋からきた僧侶だ。齢は私と同じだという。子供の時から耳がよく聞こえないのだという。昨年、白内障の手術をしたのだという。しかし手術後も目医者に通っているのだが、あまりよくは見えないのだと。車の運転も段々に覚束なくなってしまったと言う。歯が二本ほど抜け落ちてしまって、檀家に歯医者に行けと言われているのだと。法話が終わると僧侶は、念仏を唱えながら広げていた経を閉じ、これを捧げ持って本堂から出て行く。名古屋から来た僧侶の後ろ姿は一寸右に傾ぎ、歩く度に頭が揺れていた。毎朝、在家を導く頭の真っ白な男性が、木魚を叩きつつ念仏を唱え、私も合掌して念仏を唱えながら、その僧侶を見送った。

warabi
<http://blogs.yahoo.co.jp/sweetsplan/41746588.htmlからホットリンク>
朝飯を二杯食べて、荷物をまとめ、宿を出た。宿代は一日7500円であった。四条河原町までバスで出て、そこから歩いて三条木屋町の月餅屋(つきもちや)へ向かった。土産にミナヅキを一棹を買った。わらび餅も有名なのだと云う。三個入りの箱を買い求めた。わらび餅は帰りの新幹線車中で昼飯代わりに食べた。滑らかなこしあんを、流れる程に柔らかなわらび餅にくるんで、濃い色のきな粉をかけたもので、ふるふるの、ぽわぽわの、さらりの、つるつるだった。

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御嶽山の修行体験(2009年6月13-14日)

おいおい百件の神仏の章に「山伏修行」という項目を挙げてあって、いずれ実行しようと思っていたのを、御嶽山の神社で実現した。一泊だけどね。御嶽山の神社、正しくは武蔵御嶽神社がここ十年程実施している体験修行で、「開かれた神社」を目指すということで始められたらしい。毎年6月と9月に開催されていて、今回はこの6月の修行に参加したわけだ。体験修行なのだが、基本的には神職の修行で、山伏の養成ではない。とは言っても、もともと御嶽山は修行者の道場であったというし、明治以前の日本では、今のようにアイデンティティがどうのこうのとリゴリスティック(rigoristic)なことは言わないので、そこのところは曖昧でよいのだ。

初日の午後一番に宿舎に集合すると、早速、白い上っ張りと鉢巻き、褌が配布された。どうも集まった面々の内、半分ほどはリピーターのようで、三十人程の参加者の中で女性も五六人いる。神社の本殿でお祓いを受けた後、早速、滝に向かうのだという。現場に着いて直ぐに滝行を始められるように、褌に替え、キタナイおケツは見えないようにズボンを穿き、上っ張りを着た上で、鉢巻きを締めて滝に向かう。いや、なんだか、修行らしくなってきた。しかし、御嶽山はアップダウンが激しい。神社そのものが山の頂上にあって、宿舎との間を登ったり下ったり、滝へ向かったり、これから散々に歩くことになる。実の所、ここしばらく山歩きから遠ざかっているし、近頃は膝もがくがくするようになっていたので、心配は抱えていたのだった。

滝行の場所は、神社のすぐ近くかと何となく思っていたが、思ったより遠い、とは言っても三十分程の場所にある。登山道をそれて沢を渡り、少し下ったところ、左岸がえぐれた高い岸壁で、割合に広くなった川岸の奥に滝が落ちている。今の時期、大した水量ではないし、それ程に大きな滝ではないけれど、確かに修行の場の雰囲気は醸し出している。曇り空に黒い岩肌、裸足で褌ひとつになると心細いものがある。人間、足下を固めていると落ち着くものだが、裸足で岩と砂利の間を滝に向かうと、おそるおそる歩いている感じが全体の雰囲気となってしまって、褌一つの我が身が心もとない。さて、初夏とは言え、いきなり滝にうたれることはない。鳥船と呼ぶ、櫓を漕ぐ格好で気合いを入れる準備運動があるのだ。

昔々、あるところにいた若いもんは、山にでかけては、沢筋を登り、シャワークライムと称する水を被りながらの滝登りは、得意とするところだったが、寄る年波、さすがに裸、裸足で水に入るのはキツい。気合いを入れつつ、滝に打たれる。神官の言うことでは、滝と一体化するために、水の流れ落ちる岩肌に体をつけるようにとのことだったので、苔の生えた岩肌に素直に体をくっつけて滝に打たれた。少ない水量とはいえ、顔の上をざあざあと水が流れるので、息もし辛い。気合いを入れたせいか冷たさはそれ程でもなかった。むしろ、一人ずつ順に滝に打たれるので、二回目を列を作って待っている間のほうが寒かったくらいだ。この日は、別のグループの滝行もあって、滝に打たれるのは二回だけであった。

滝行から上がって、また列を作って神社に戻り、大祓祝詞の練習。こちらの方が辛かったかも。板の間の正座がおよそ一時間ほど続くので。その後、宿舎に戻って夕飯。おかゆに精進料理で、こっちの方は、普段とそれほど変わっているわけではない、内容的に。正座しながら食べるのも、修行の一環だということで納得した。次の朝は五時起きということだ。

さて、次の日、曇りだが時々薄日のさす天気。朝食前に滝に向かう。神官のいうことには、昨日は二回の滝行で物足りない方もいらっしゃるかと思うので、今朝は三回にして少し滝に打たれる時間も長くしましょう、ということで。そんなものですか。早朝、滝に到着して早速、鳥船の作法を行い、滝に打たれる。気合いを入れて入ったので、確かに水は冷たいがそれ程ではない。が、足先があっと言う間に冷たくなってしまって、滝から上がってもよろめいてしまう。足先まで、気合いが回らなかったか。三回、滝に打たれ、体を温めるための鳥船を行って、やっと落ち着いた。落ち着いてみれば、滝からの出口の下流側の開けた向こうに、緑が目にも鮮やかで、若いころの夏の沢歩きを思い出したな。あの頃は何にも考えなかったが、それなりに良かった。

宿に戻って、精進の朝食をとった。この日は山懸けと称する山歩きが主となる。勿論、初心者を含む一行なので、ゆっくりと歩く。例の膝の痛みが出なくてよかったと思う。後日になっても膝の不調は出なかったので、山歩きというものをしなくなって、なまっていたのかも。興味深かったのは、山伏の格好をした男が二人、一行に加わっていたことで、歩きながら、山道の要所で法螺貝を吹く。聞いてみると、二人は仲間というわけではなく、金峯山寺東京別院の法螺貝の講習会で知り合った仲らしい。とは言ってもお二人とも在家で得度されているということだった。

次はホラ吹きか。それとも得度か。

p.s. このあと、9月にも滝修行に参加した。終わった後で、3月にも修行のあることを告げられたが、熟慮の末(笑)、遠慮することとした。

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スクーターを始める(2010年2月14日)

これには伏線がある。おいおい100にも計画していて、書いたのはバイクに乗る、であったが、若干の方針変更を伴って、スクーターを始めることとした。この時期だったのは、あのジジイ今更バイクだなんて、と言われないように、還暦手前ぎりぎりで始めたという、大いに人の目を気にした行いである。人の目を気にする、あるいは捻れた自己顕示欲のための行動であるから、ヘルメットも替えた。というより大分以前にバイクに乗ろうとしてヘルメットを買ってあったのだが、結局、バイクに乗る機会を逸してヘルメットも押し入れに入れっぱなし、改めて引っ張り出してみると、ウレタンがボロボロ、という状態だったので、新たに購入したわけだ。近くのバイク用品の店に行ってみると、ヘルメットの下取りもしているというので、あわてて取って返し、このボロボロのヘルメットを500円ばかりで引き取ってもらって、新調したのだ。買ったのは金色のジェットタイプ、これからチャラ系を目指す自分にぴったりと、少しばかり気恥ずかしかったが、精算カウンターへ持って行ったということだ。

バイク系にしてハーレー・ダビットソンという方針も捨て難いのだが、大型スクーターにオーディオを付けてチャラチャラと流すのもいいな、という方針を取ったのには、経緯という程の物でもないが、流れがあるのだ。浅草の行きつけのバー、行きつけと言っても月に二三回か、つくばの帰りによる飲み屋があって、ここのマスター、スカーフを頭に巻き、花を付けてレゲーを鼻歌まじりに唄いながら、店をやっているという特徴のあるサーファーで、店に来る連中もサーファーが多い。で、このマスターと客のいない間は、壁に投影されたサーフィン・ビデオを眺めながら、あれこれとくだらない話をして時間を潰すのだが、顔に風があたると気持ちが良い、という一点で一致した。こっちはスキーの話をしていて、マスターはサーフィンの話をしていて実はまるっきりかみ合っていないのだが。手近に顔に風があたるのはバイクかスクーターで、どっちが良いだろうとマスターに聞けば、聞くまでもなくサーファーの答えは、チャラ系のスクータに決まっている。

心は決まった、ということで、ネットで中古を探すと環八近くのバイク屋に十万を切る100ccのスクーターがあって、いきなり400ccはないだろうと、流石にモノには順番があること位は年の功で知っている自分としては、まことにピッタリの出物があった。で、次の日曜に出かけて、店の兄ちゃんにネットで見た旨を告げ、スクーターを見せてもらう。走行距離も殆どなくて新品に近いので、決めようと思い、ついでにその横にあるスクーターの値段を聞けばさらに安い。考えていたスクーターが2ストロークで、横のが4ストロークと聞いて、あっさりそれに決めた。しばらく乗って次に、排気量の大きいのに変える気はまんまんなので、この時点で若干のパワーの差は問題ではないからだ。

その数日後、市役所に出かけてナンバープレートを受け取り、次の日曜にショップに出かけて、スクーターを受け取ることと相成った。前日まで雨だったので気にしていたが、自分も二輪に乗るのは十年振り位だから気にする、都合良く晴れてよい案配であった。店の前までスクータを出してもらい、ヘルメットをかぶって出発。いきなり環八を走るのは躊躇われたので、横道をひろいながら帰ることとした。あ、気持ち良い、思った通りだった。途中でバックミラーの向きを合わせていなかったことに気がついたり、ウィンカーの消し忘れをしたりしながら、家へと戻ろうと思い、気持ち良さに、ついでにホームセンターまで足を延ばして、駐車用のカバーを買ったりしたり、スタンドでガソリンタンクを満タンにしたりしたのだった。まだまだ風は冷たく脚が冷えたけどね。ちなみに購入したスクーターはホンダのスペイシー100だ。

という訳でチャラ系のスクーター遊びが始まったのだ。

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金のジェンマ(2010年9月14日)

ホンダのスペイシー100は良く走った。近所の用事を済ませるには最適だ。だが、所詮原付自転車。幹線道路を走るには肩身が狭い。自分は気持ちよく走っているつもりでも、傍から走っているのを見るといかにもエンジンサイズぎりぎりの車体に、無理矢理ライダーがサルのように乗っている感じは否めない。車体が小さいせいか道路が車で混雑すると車の間をすり抜けたくなる。やたらとちょこまかしたくなり、別に急いでいる訳もないのに、我先に急ぎたがるようになる。自分だけかも知れないが、こんな自分に気がひける。負い目を感じる(大げさな)。長谷川伸作品の登場人物は世間に対して負い目を感じていると云った評論家がいたが、私も何となく世間に負い目を感じている。

閑話休題。負い目を別として、当初の計画通りスクーターをアップグレードした。今度はスズキのジェンマ250ccだ。ジェンマはあまり売れていないらしくスズキの代理店で見た車体もキャンペーンで試乗車に使われていたというものだ。そのかわりに殆ど距離は走っていないので、普通の中古車よりも高いが新車よりは断然お買い得です、ということで迷わず購入した。実は価格もそれなりだったが、その格好よさに惹かれたのだ。

gemmaなにせ、金色。スペイシーの時に買ったヘルメットも金色なので、そのつもりはなかったのだが、金色のコンビネーションとなった。ここで言っておくが別に拝金主義だからというわけではない。ただし非常に目立つ。もう街なかで目立ってもいいや、年だし、ということだ。

で、乗った感想なんだが、すこぶるよろしい。まずタイヤサイズが少しアップしたのと同時に、ホイールベースが長くなった。その長さが全然違う。重心の低いのも相俟って直進安定性が良いし、少々の路上の凹凸は全く気にしなくて良くなった。スペイシーの時に感じた無理に走っているというせせこましさがないのだ。もちろん排気量の違いも大きくて、これは特にジェンマの設定がそうなっていることもあるらしいのだが、40〜60kmあたりの走行が全く滑らかだ。マフラーからの音もこのあたりが一番落ち着いた響きになる。この速度からの加速もよく効く。

あまり気に入ってしまったので、毎朝、早起きしてまだ交通量の少ない五時頃に、都心まであちこちの道を拾いながら往復するという趣味を始めた。都心は家からみると東の方向にあるので、朝焼けの空を見上げながら車の一台も見えない道を走るのは実に快適だ。数日前には浅草寺の六時からの朝参りに行ってきた程だ。浅草までは距離もあり朝参りの時間が決まっていることもあって、ついでに首都高速にも乗ったのだ。周りの車の速度にも楽に合わせることができるので、乗る前に少しは不安を感じていた高速走行にも何の問題もなかった。この趣味、しばらく続きそうだ。

あまりに可愛いスクーターなので、キントト号と名付けたのだ。

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浅草寺朝参り(2010年10月17日)

「八百屋お七」は寺小姓の吉三に会いたいがために実家に火をつけて火あぶりになってしまったが、その相手の吉三がどうなったかというと、その後出家したのだという。出家して西運を名乗りお七の菩提を弔うために、目黒あたりにあった寺から浅草寺へ一晩おきに一万日参るという行を、実に二十七年五ヶ月をかけて成し遂げたのだという。 gemma

これほどの話ではもちろんないのだが、浅草寺では毎日三回の法要があって、朝座が六時(冬は六時半)から、昼座が十時から、夕座が午後二時から修されている。このうち昼座と夕座にはこれまでも何回もお参りしていたのだが、朝座にはお参りしたことがなかった。なにせ今の住処から出て浅草に着くまでは電車を乗り継いで一時間半は必要なので、始発電車に乗っても間に合わないからだ。

で、一度はこの朝座にお参りしたいと思っていて果たせなかったのだが、例のジェンマに乗るようになってこれが現実になった。まだ日の登る前に出発すると四、五十分程度で浅草寺に着く。浅草は住処から東に向かうのだが、天気のよい日には朝焼けの素晴らしい空を見ることができる。これは気持ちがよい。余裕を持って出かけているので、早めに着いた場合にはもう少し走らせてスカイツリーの足下まで行くこともある。まだほの暗い空に見上げるスカイツリーは巨大だ。

早朝は車も少ないので快適に走れる。もっとも道路の上の表示板が「二輪車スピード出し過ぎに注意」のサインを出しているので、制限速度は守るようにしている。危ない目にあってからだけれど。交通量は五時前が一番少ないようだが、六時近くになるとバスが走り始めるので、平均速度が落ちてしまうのは致し方ない。

浅草寺の帰りには七時を過ぎるのだが、都心のいくつかのカフェでは営業が始まっているので、カプチーノあたりをさっくりと飲みに寄るのも、朝のすがすがしさが楽しさを倍加させてくれる。ということで、朝の空模様をみて雨が降らない時にはキントト号で浅草に向かうことにしている。でその一杯がこれ。

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