― 女、家から電話中。
「うん、そう。じゃ持っていくよ。うん、一杯送ってきたのよ。え?そう、冷凍のもあるのよ。ちゃんぽんセット。私のところ冷蔵庫が小さいでしょ。そんなに入らないの…そう。じゃ、日曜に持っていく。ん、そいぎな」
「ちゃんぽんセットかー、なんか面倒だなー。…でも美味しそうか?えー、キャベツ・玉ねぎ・豚肉・エビ・イカ・もやし・しいたけ?なんだーみんな入ってるし、気持ちはうれしいんだけどなー。あ、荷物着いたって電話しなくっちゃ。また帰って来いとか言われそうだけど」
― 数日後、女は兄のところに来ている
「どう?割と美味しいでしょ」
「ん。まあな」
「この味、昔食べたあの店の味に似てるな。ね、子供の頃よく行ってたお店」
「あー。そうかも」
「ちょっと味が薄いかなー。麺がもう少し硬かった方が良かったかも」
「ん。そうか」
「でね、お兄ちゃん、おばさんが入院したんだって。大したことはないらしいんだけど。先週なんだって」
「そうなの」
「それからー。全然連絡ないんだからって、お母さん言ってたよ」
「ちゃんとやってるさ。この前なんか海外ロケこなしたんだ。アシスタントディレクターだからな。チベットまで行ったんだからな」
「へー、海外ロケ?初めて聞いた。お兄ちゃんが行ったの?なんか凄い。へー」
「凄いだろ。驚異の秘境って番組なんだぞ。…深夜番組なんだけどな」
「へー、凄い凄い。チベットだなんて。お兄ちゃんテレビに映ったの?」
「俺はさ、映らないさ。その時はカメラも動かしたからな。ディレクターに頼まれて、どうしてもって言うからさ、凄い画も撮ったんだぞ。番組見た?」
「ううん」
「ビデオがあるからさ、後で見せてやるよ」
「凄いねー。これからもあるの?」
「海外ロケか?んー。あんまりないかも」
「そうなの」
「でもまたきっとあると思ってるんだ。そういやお前はどう?まだ、演劇とかやってんの?」
「そっちの方はね。たまに公演があるから、やってるよ」
「ふーん。今度はいつだよ。暇があったら行ってやるよ」
「え、いいよ。来なくて。ちょっと恥ずかしいし、舞台に出れるかどうか分らないんだから」
「ふーん」
― 二人、小さなテーブルを挟んで、黙って皿のチャンポンを食べ続ける。
「あ、なんか鼻がむずむずする。・っへー、あ、っへー」
「だいじょうぶ?お兄ちゃん」
「へ、へっくしー」
― 男、大きなくしゃみをして、はずみで鼻の穴から麺が一本垂れてくる
「きゃ、やーだー、お兄ちゃん、鼻からちゃんぽんがー」
「ティッシュ、ティッシュ、っへ、へ、へっくしーん」
「きったないー」
「うるさい。…おっ、そうだ。あのさ、鼻から麺を出せるようにするとさ、循環呼吸ができるようになるんだってさ」
「何それ」
「鼻から息を吸いながら口から空気出してな、サックスとかを吹くんだとさ、息つぎしなくても音がずっと出るんだって」
「ふーん」
「先輩がさ、サックス吹いていて、クラブに出たりするんだってさ。格好いい人なんだよね」
「まあ、いいけどー。ほら、顔にまだ何かついてるよ。ほら、拭いて」
林の小道を抜けると視界が広がった。
小道は芝生につながっていたが、芝生には傷んだところがなくて、誰も歩いたようには見えなかった。
足下が柔らかな芝生に変わったから、靴を脱ごうかとも思ったけれど、少し空を見てから止めにした。
少し先で芝生の地面がゆるやかに、上り斜面となっていたので、暗い空と黒いと言ってよいほどの色をした芝生しか目に入らなかった。
昼間の草いきれほどには強くないが、芝生を刈ったばかりのような草の匂いが地面近くにまだ漂っていて、屈んで芝生を手のひらで撫でてみたが、ちょっとチクチクとした。
腰を上げて、手のひらを見ると、指先に露に濡れた枯れた芝生の一本がくっついてきていた。
斜面を上るとそこが盛り上がりの一番上で、下に水面が見えた。ちょっと伸びをしてみてから、手を腰にあててゆっくり下っていくと、斜面の途中で芝生が水に浸かっていて、そのまま広い水面につながっていたのだ。
霧があるのか、周りが暗いためなのか、水面の先はぼんやりとしていた。
右手を見ると水面はずっと先に続いていて、空と林と黒ずみながら解け合っていたので、なにがあるのかはわからない。
左手に木でできた小さな桟橋があるのに気づいた。近づくと桟橋の先にはボートが繋がれていた。
白く塗られたボートが薄明かりに浮かんでいる。桟橋はごく短くて、その上に立つと自分の姿が水面に映っている。ふん。
「乗ってみるかい?」男がボートに座っていて、私ににっこりと微笑んだので、うなづいた。
男は私の手をとって、ぐらつくボートに乗り込むのを助けてくれた。男の手は大きく厚く、そしてすこしばかり暖かかったので、私も微笑んだ。
「じゃ、そのロープを外して」
男に言われて、桟橋の先の杭に巻き付けてあったロープをほどいて、小さなボートの中に置いたら、ギッとオールが鳴って、ボートは岸を離れた。
風はすっかり止んでいてたので、水面は滑らかで、右手に月が映っているのに気づいた。
いつの間にか、私は小さくなっていて、ボートの艫(とも)の横木に腕を置いていたのだった。腕に顎をのせて離れていく岸を眺めていたのだった。
傾けた首から水面の滑らかさがよく見えた。月は水面で白く輝いていたが、やがてボートが水面に引いた波でいくつにも分かれてしまった。
ギッとオールが鳴るたびにボートは押し出されて、その度にわたしの頭も動いた。目の前の水はちっとも魚のにおいがしなくて、今しがたまで氷っていたのが融けたような、金属のような匂いがした。
きっと冷たいのだろうと思って、右手を水面近くに垂らし、中指の先を浸けてみた。水はひんやりとしていたが、ほっぺたに当たる風と同じくらいで、ちっとも冷たくなかった。
ちっとも冷たくなかったので、手のひらを水面に打ち付けてみた。ばしゃりと音がして水紋ができたが、すぐにボートが進むにつれて流れさっていった。
ギッというオールの軋みの他には何も聞こえなくて、濡れた手のひらからしたたり落ちる水滴がぽちゃぽちゃと音をたてた。
「ねえ、おとうさん。今日は何曜日なの」
「きょうは木曜日さ。そして十三夜だね」
「じゅうさんや、って何」
「十五夜のあとのお月見ってことさ」
わたしは、またボートが残してきた水面に向かって、今度は指先だけ水面に浸けてみた。
ボートがギッといって進むたびに私の指先に水がからみついて、そしてすぐに離れた水が水面に波を作った。
私が指先を横に動かしたり、さっと空中にあげてみたり、ツンと突いてみたりする度に水面に波が残って、波の跡は月の光に照らされて目に見えぬほどに暗いむこうにまで続いていた。
「あ、水茎だね」
私が振り返ると、男がオールを漕いでいて、男の髪のワックスの匂いがした。
私は白いドレスを着ていて、もう子供ではなかった。
ドレスの下で両の膝をそっと擦りながら、「そうね」と私が答えると、男は白い歯を見せて微笑んだ。
あ「あのオヤジ、また来てるな」
い「え、どれ?」
あ「ほら、あそこの」
い「ああ、あのオヤジね、結構上手いよな。いつもランエボ乗ってるし」
あ「最初はさへったくそでー」
い「んでよー、しょっちゅうコースアウトしてやんの」
あ「だよなー。いつころからだ。上手くなってきたの」
い「この前さ、店内対戦で負けちゃったよ、オレ」
あ「お前、ナサケなくね、あんなオヤジに負けて」
い「だってよ、あのオヤジ、しょっちゅう来てるんだぜー、もうちょいだったんだけどよ、最後のカーブで抜かれてー」
あ「えー、そうなの。ダッサー」
い「じゃさ、お前、やってみろよ。あのオヤジ、ヒマそーだし」
あ「おー、オレのスープラの速いとこ見してやっか」
― 派手な音をまき散らすゲーム機械が並んでいるゲーセン。先ほどの若い男二人、小太りの中年男と何やら話をしている。すぐ話はついたらしく、並んでいるゲームマシンにそれぞれ乗り込んで、ゲームがスタート
あ「いやー、凄いですねー。オジ、いやカワヅさん。あれ本名なんですか」
か「あ、あれね、本名だよ」
い「あれですか、カワヅさんって、走り屋だったんすかー」
か「いや、そんなことないよ、昔、若い頃にちょっとね、峠を攻めたことがあっただけさ」
あ「へー、本物なんだー、すっげー」
い「おー、スッゲーよなー」
あ「あのカーブであっさり抜かれてー、何であんなに速いんすかー」
か「あー、あれね、ヒールアンドトゥ使ってね、エンジンの回転数を落とさないんだよ」
あ「へー、スッゲー、ヒールアンドトゥ使えるんだー」
か「ま、キミたちもね、すぐ使えるようになるさ」
い「へー」
― 中年男、高校生の尊敬のまなざしを背中に受けて、足取りも軽くゲーセンを出てくる
未完了である
町田さん、あなたはどう思いますか?
え、私ですか?
そう、町田さん。
あー、相手との信頼性の醸成、ですよね。
未完了である
「ただいまーッス」
「お、ハナちゃんお帰りー。ごくろーさん」
「どーもー、じゃ休憩に入りまーす」
「はいよ。ボクも晩ご飯にしよ。ハナちゃん、一緒に食うか?」
― 休憩室にて店長とハナちゃん。ハナちゃんはサンドイッチ、店長は弁当
「店長、ご飯に梅干しッスか、シブイっすね」
「だってさ、弁当作ってくれる人いねーし、忙しいし。ハナちゃんチーズサンドか」
「チーズ好きなんスよ」
「こんだけチーズの匂いしてて、くどくネ」
「店長こそ、この商売なのにチーズ好きじゃないんスか」
「僕ね、あんまりチーズ好きじゃないんだよね」
「えー?信じられないッス」
「いいんだよ。…ところでさ、ハナちゃん調子どうだい?」
「調子ってレースですか?…このところあんまり調子よくなくって。でもこの前10位に入ったんスけどねー」
「10位ならまあまあじゃないの。だって20人くらいのレースなんだろ?レディスなのに結構やってる人いるのね、この前聞いてびっくりしたけど」
「まあまあ居ますよー。そりゃ男子より全然少ないけど」
「凄いよね、でもこの前、足引きずってたけど大丈夫なの?」
「あ、判りました?すいません、ちょっと軽いねんざだったみたいで」
「転倒したの?」
「そうッス、スタートして最初のカーブで前の転倒に巻き込まれちゃって、ガシャガシャになってー。頭がフラフラになってー、何だかよく覚えてないんスけどね、それからバイク起こして、前の方を追いかけて、でもダブルジャンプがうまくいって順位取り返したんスけどねー、結局上位は無理でー」
「でもハナちゃん怪我しないよね」
「体の丈夫なのがとりえなんで…」
「…まあ、別に深いイミないから…お茶飲む?これあげるよ」
「どーも」
「でも、ハナちゃんチームに入ってんだろ?」
「レディスのチームに入ってますよー。でも、他の皆が凄くて…」
「へー」
「あー、重機の免許でもとろうかなー」
「へ、ジュウキって何?」
「ブルドーザーとかダンプとか、そういうのですよー」
「へー、何で?」
「重機のドライバーって結構給料いいんですよねー…モトクロスってお金かかるし」
「ふーん、そうなの?」
「そうッスよ。バイクもしょっちゅう壊れるし。移動にもお金がかかるし、オフビだってただじゃないしー」
「なんだオフビって」
「近くの練習場ですよ」
「でもさ、上位に入るようになったら、なんとかなるんだろ?」
「みんな可愛い子ばっかりでー。取材なんかも来るんですよねー」
「賞金も出るんでしょ?そのうち」
「どうだ?僕といっしょになるかー?」
― ハナちゃん、白いプラスチックスプーンでサラダをつついていた手を止めて
「…イイッス」
「はは、まあまあ」
「何がまあまあだか」
「私の母が和裁をやってて、あ、そんなに凄い着物じゃなくて、殆どは浴衣とかだったんですけど」
「はあ、そうですか」
「あ、こんな話、嫌いですよね」
「いや、そんなことないです。確かに和服ってあんまり見ませんよね」
「あら、やっぱり嫌いなんだわ」
「そ、そんなことありませんよ。いや、この前そういえば赤坂で奇麗な和服の人を見ましたよ。着物っていいな」
「着物ってやっぱりスタイルのいい人が着ると似合うのよね」
「そうですよね」
「その見かけた人って、あなたの好みなんですか」
「えー、いや、そんなことないですよ。そう、おかあさんが和裁を。それでも少ないですよね、そういう人って」
「私なんか、この頃、少し太ったでしょ。着物なんか似合わないわ」
「いや、いやそんなことないですよ。今度、着たところを見てみたいな」
「あら、似合わないわきっと。しばらく着た事なかったから」
「だって着物の話なんかお嫌いでしょ」
未完了である
ー 空には満点の星があるが、あたりの地面は星明かりではよく見えない暗闇に覆われている。ところどころにブッシュとも言えないような、背の低い枯れた樹が、岩の間にところどころ生えている。その岩の周りの、もっと暗い星影に男が数人いるようである
「少尉殿、ビッグバードは何時、到着するんでしょうか?」
「ああ、今連絡が入って、機材のやりくりが付かなくて明日の夜明けになると言ってきた」
「それじゃ…」
「ああ、ドローンからの報告じゃ、俺たちの周りには誰も居ないらしいってよ。誰か近寄ってきたらアラートを入れるって連絡があったがな」
「そうですか。で、例の男なんですが、大分に弱っていて」
「夜明けまで持ちそうもないのか?」
「分かりません。尋問に答えられるかどうかも」
「まあ、仕方ないな。ちょっと変わったのが居たんで確保しましたと言ったら、尋問するから連れて戻ってこいとは、言われたんだが」
「重要なんですかね?」
「たいした情報は得られないと思うんだが、一応、聞いておきたいんだろ。知らねーよ。…まあ、面倒みておいてくれないか?ケン」
「イエス、サー」
ー ケンと呼ばれた男は移動して、10m程離れた別の岩陰に入る。パトゥー(ショール)を体に巻いた男が横たわっている。
「おい、大丈夫か?えーっと何て言ったっけ、ジェームズだっけ、おいジェームズ」
ー 呼びかけられた男は弱々しくつぶやく。
「水、…水を」
「水か、少しなら良いだろう。もともとそんなにないんだが」
ー 兵士は横たわった男を抱きかかえて、口元にボトルをあてがう。岩陰から身を起こした男の顔に星明かりが届くが、その顔は青白く、目は瞑ったままである。まだ若い。髭を蓄えているが二十歳そこそこの年齢であろう。一口、水を飲んで、男は静かに息を吐いた。兵士はまたゆっくりと男を横たえさせる。
「おい、ジェームス。明け方にはビッグバードが来るからな。そしたらちゃんとした病院に運んでやる」
「…」
「ジェームス、お前カナダ人だとか言ってたな。カナダの何処なんだ?」
「…モントリオール」
「モントリオールか、良いところらしいじゃね。何でわざわざこんな所まで来たんだか」
「…何も知らないくせに…」
「ふん、そうだな、俺は何も知らない。お前らが何で戦争してるのかも知らないしな。俺は命令されて来ただけだからな」
「…アメリカの所為だ…みんな…神の怒りが…お前らの上に…」
「ふーん。まあ、俺だってお祈りくらいはするからな。ところで、どうだ、そろそろさっきの薬が効いてくる筈なんだが。痛みはないか?」
「…ああ、さっきより楽になった…」
「そうか、そいつは良かったな」
「…ありがとう…あんた…何て名前だ?」
「ケンって呼んでくれよ。まあ俺の任務だからな、苦しかったら、何とかしてやるから、気にするなよ」
「…ケン…あんたいい人だ…」
ー 横たわった負傷者のそばに腰を下ろした兵士。眠ってはいない。時々首をめぐらしてあたりに耳を澄ましている。横たわった男は眠ったようだが、苦しそうな息をしている。
ー やがて、東の空が少し明るくなってきた。だがまだ空には満天の星。人工衛星が天頂を横切っていくのが見える。ケン、立ち上がって、一度あたりを見回してから、大きく背伸びをする。首をまわす。
「おい、モントリオール・ジェームス、もうすぐ夜明けだ。夜が明けたらお迎えが来るからな、元気出せ」
ー 横たわった負傷者が薄く目を開ける。
「…僕は戦士だ…戦士だから…」
「ああ、そうだな。お前は戦士だよ。まあ、昨日の戦闘は終わったんだから、気楽にしろ」
「…」
ー 少尉がメンバーに声をかけて回っている。
「ドローンの報告じゃ敵はいないが、お前ら、目ん玉ひんむいてもう一度よく周りを確認するんだぞ」
「ビッグバードが攻撃されたら、お前らだって只じゃ済まないんだからな」
「アイアイ」
「ケンです。敵は見えません」
「こっちも異常なし」
ー 少尉が腕にくくりつけたパッドに指を滑らせて、連絡をとっているようである。
「おい、お前ら、あと30分で、ビッグバードが到着するぞ。しっかり周りを見張ってろよ」
「アイアイ・サー」
ー ケンが横たわった男を背にして、明るくなりつつある周囲を監視している。まわりは白茶けた砂礫と岩、300m程の距離に廃屋がある。ケンは双眼鏡で廃屋が無人であることを確認している。
「異常なし、結局やつら戻ってこなかったな」
「おい、ジェームス、お前の仲間は、お前をおっぽらかして逃げちまったらしいぞ」
「…ゴホッ…」
「おい、大丈夫か?もうちょいだからな。聞こえてるか?」
ー 横たわった男、薄く目を開ける。薄明るくなった空が男の顔を照らす。青白かった顔に赤みがさしているようにも見える。
「…大丈夫さ…」
「そういや、思い出した。ジェームス。俺はな、日本に居たことがあるんだぜ。お前、日本に行ったことあるか?」
「…ない…」
「いいところだぜ。半年くらい居たんだが、そこで、知り合いになった女が居て、へへ、日本のダンスを習ったんだ。まあ、少しだけどな」
ー 横たわった男、口元が僅かにほころぶ。
「何ていったっけかな、そのダンス。えーっと、あ、Kapporeiだ。確か。Yoi-Yoiってかけ声で踊るんだぜ。こんな風に」
ー 「かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ」。明るくなりつつある空を背景に、横たわった男に向かって、ケンがポーズをとってみせる。
「どうだ?笑っちまうだろ。へへ、あの女どうしたかな」
ー 横たわった男の目が暗い。口元は僅かにほころんだまま。
「おい。ジェームス!おい」
ー ケン、男の方にかがみこみ、男の腕に巻いてあったモニタをチェックする。首を横に振る。ケンが男の腕をゆっくりと地面におろす。
ー 10m程離れた少尉のもとへと、向かうケン。
「少尉どの、尋問予定の捕虜ですが、心肺停止です」
「やっぱり、間に合わなかったか」
ー 少尉、パッドに向かって、何か話し始めたが、すぐに終わる。
「よーし、捕虜は釈放する。帰るぞ」
ー やがて、地平線のあたりから特徴のあるプロペラ音が聞こえてくる。すぐにその音は大きくなって、オスプレイが手前の丘の向こうから姿を現した。小隊はすでに集合して膝をつき、着陸を待っている。わずかの間にオスプレイは頭上に達し、ものすごい風圧にあたりの砂が巻きあがる。
「ゴー、ゴー、お前らさっさと飛び乗れ、ぐずぐずするなよ。ケン、終わったか?」
「イエス・サー」
ー 一分もしないうちに、オスプレイは離陸した。開けっ放しの後部扉から、外を眺めるケン。つい今しがたまでいた、岩の横に、すっかりパトゥーでくるまれた男が横たわっている。朝日がさして、薄汚れている筈のパトゥーが一瞬白く輝いた。
― 薄汚れた蛍光灯の下に丸い台が回転していて、五段になったその棚にタバコやキャラメルの箱がパラパラという程度に並んでいる。うらぶれた温泉街の射的場である。男が通りを眺めながら、きしむ板の間の射的台の脇に置かれた擦り切れた緑色の丸いすにぼんやりと座っている
― 男、ポケットを探ってタバコの箱を取り出す。一本だけ残っていたのを口にくわえ、箱を握りつぶして、脇にあるゴミ箱に投げ入れる
― 投げ入れたつもりだったが、ゴミ箱の縁に当たって、ポトリと落ちた
「ちっ」
― 男、よっこらしょとかけ声をかけて椅子から立ち上がり、ため息をつきながらゴミを拾い上げようとして、いつの間にか入ってきた客の革靴が目に入る。男、ぎょっとして顔を上げ、立ち上がりながら背後に目をやり、駆け出そうとするがすぐに肩を落としてしまった
「あんたか」
― 店に入って来た男、年の頃六十は過ぎているのではないか。白髪痩躯で暗い目付きをしており、油断なく相手を見つめる。腰を軽く落とし、相手を逃がさないつもりである
「だいぶん探しましたよ」
「ああ。来ると思っとった。いつかな」
「なかなかいい往生際だね」
「いや、もうこれ以上逃げる気なんかないさ。今更なんだから。…タバコ吸っていいか?」
「どうぞ」
― 射的場の男、くわえていたタバコに火をつけ、擦り切れた緑色の丸いすに座り直す
― その様子をみて、客、体の力を抜いて、ひとつため息をつく。下げていたカバンを射的台に置いた
「もうじたばたしないさ」
「あんた、震えてるね」
「ああ、覚悟決めたからな、もう」
― 客の男、座った相手をじっと見つめている。見つめながら懐に手を入れる
― 射的場の男、びくりと体を動かして相手を見上げるが、相手の男は内ポケットからタバコを出しただけ
― 客の男、ライターで火をつけ、深く吸ってから顔を横に向けて大きく吐き出す
「でね、姐さんはあんたのタマ取って来いって言うんですよ」
「そうだろ。いや、ワシももう逃げるのも疲れたし、一緒だった女もなくなったし、あんたの好きなようにしたらいいが」
「でもね、あんたもこっちもね、いい年だし。今更、あんたのタマとっても、…どもならん」
「…」
「だけど、見つからなかったとか言うとね、姐さんがまた探せって言うに決まっとるから」
「…ん…」
― 客の男、短くなったタバコを床に落として、靴底で火を消す
「でね、ものは相談なんだが」
― 射的場の男、客をゆっくり見上げる
「何でも」
「…あんたの指ね、持って行こうと思うの。そうすればね、姐さんも納得すると思うんだよ」
― 射的場の男、おおきく息を吐いて、
「そうかもな」
「何か、こうね、区切りつけたいのよ。オレも」
「区切り?…ああ、分るよ。もういい加減」
「じゃ、ツメさせてもらっていいかな」
「ああ、もう、いいよ」
― 男、射的台に置いてあったカバンから、さらしに巻いた出刃を取り出す
「一応ね、頼んで研いであるから、切れ味はいいと思うのよ」
「ああ、そうだな」
― 二人、木のテーブルに向かい合って立つ。蛍光灯のあかりの所為か、二人とも顔が青黒い。ふたりの間に俎板。片方の男、小指を伸ばして俎板の上に
「じゃ、すっぱりと頼みますよ」
「ああ」
― 出刃を持った男、微かに震えている。刃先を俎板に付け、刃の根元を相手の小指の関節にあててから、息を大きく吸って、体重を出刃の峰に一気にかける。声にならない声を上げて、射的場の男背中を丸め、クビを振った。思いのほか血は飛び散らない。白っぽい、骨張った指が蝋細工のように俎板の上に乗っている
「すまんでした」
「くっ…いや、ありがとうござんした。つっ…姐さんには…よろしく」
― 出刃を持った男、素早く刃を拭ってさらしに包み、俎板の上の指をつまみあげて、別の用意していたらしいさらしにくるんだ。相手を見つめて、一礼する
「じゃ、これで」
― 射的場の男の手から血が流れ出した。もう片方の手で指の根元を押さえるが、床にポタポタと血が落ちる
「ああ…ワシもこれで区切りがつきました。皆さんによろしゅう」
― カバンを抱えた男、店を出ようとして振り返る。カバンの中を探って
「忘れておった。これ抗生物質なんですわ。飲んでおいて下さい。いや、娘が薬剤師やってて、効きそうな薬を教わってきたんですわ」
「ああ。これはどうも。…いい娘さんですな」
「はい。お陰さんで。それじゃ」
「ああ…それじゃ」
― 薄汚れた蛍光灯の下に丸い台が回転していて、五段になったその棚にタバコやキャラメルの箱がパラパラという程度に並んでいる。うらぶれた温泉街の射的場である。男が左手にタオルを巻いて、座っている。
― 六畳の和室、炭に炉がきってあり、その前に亭主。お茶の教室らしい。生徒は和服の女が二人と背広を着た男が一人
やっぱり先生のお手前素敵だわ。お手前というより横顔が素敵よね。…でも、なんかガサガサしてあの男。もっときちんと座ってられないのかしらねー。もっさりしてるし。何ていったっけ?遠井さん?えーっと、土井さんか。なんであんな人がお茶習おうなんて思ったのかしらね。ちょっとー。静かに座っててくれるー。
― 亭主、たてた茶をすすめる
「はは、土井さん。もっと楽にしていいんですよ。その内にね、慣れてきますから」
「ははっ。どうも」
なんかねー。もう。我慢できないのかしらね。あああ、お菓子こぼしちゃったりして。あんなに緊張しなくたって良いのに。でも、先生の気遣いって立派よね。お手前も素晴らしいし。あら、キョウコさんも先生をじっと見たりして。顔が赤いんじゃないの。
「じゃ、今日はこれまでにしましょう。そう。三竹さん。土井さんにね、初めてだから、色々教えてあげて下さいね。お願いします」
「はい、わかりました、先生。…土井さんもよろしくお願いします」
あら、キョウコさんじゃなくて、先生、私に頼んでくれたわ。うれしい。ま、私の方がキョウコさんより先輩だから?
― 教室の帰り道である
「土井さんは、お茶はやってらっしゃてたんですか?何か雰囲気がありましたよ」
「いいえ、とんでもないです。初めてなんですよ」
「そう?初めてなんですか
未完了である
ー 男と女がベッドの上に。男が女に腕枕をさせている。
「ねえ、佐々木さん、私のこと好き?」
「もちろんだよ。蘭ちゃん」
「佐々木さんM菱のスーパーエンジニアなんだよね。凄いな」
「スーパーって訳じゃないけど、エンジニアだな、一応」
「エンジン設計の部門にいるって言ってたけど、凄いな。私も工学部出身なんだよ」
「ああ、向こうじゃ超一流の大学じゃないか。そこ出てから留学してるんだよな。この前、蘭ちゃん話てたよね」
「えー、嬉しい、よく覚えていてくれたね」
「あー、これでも他人の話はよく覚えてるんだ」
「で、どんなところ設計してるの?凄いんでしょ。聞きたーい」
「えー?燃焼室の設計さ。俺一人で設計してるわけじゃないからな」
「そうなの、ふーん」
ー 薄暗い室内にエアコンの音が低く聞こえる
「ところでさ、蘭ちゃんは胡弓をどこで習ったんだい?」
「胡弓じゃないってば、いやだー、佐々木さん、二胡だよー。子供の頃からおばあちゃんに教わってたの」
「おばあちゃんって、プロなのか?」
「プロってわけじゃないけど、若い頃は目指したところがあったみたいよ。そのあたりの事情はね、あんまり詳しく教えてくれないけど」
「まあ、色々あったんだろうな」
「佐々木さん、なんで二胡教室に入ったの?」
「えー?何となく、以前にテレビで見てさ、自分も弾いてみたくなったのさ。それだけ…。でも蘭ちゃんは工学部だと勉強が忙しいだろ?よく二胡教える時間があるな」
「ん、まあね。ほら、留学費は出ていても、色々と物入りでしょ」
「物入り、だなんて、蘭ちゃんほんと、日本語が上手だよね」
「えー?語学は得意だからかなー?」
「工学部に留学して、日本語が凄く上手で、二胡教室の先生代理だからな、蘭ちゃん才能あるよね。で、何で俺なんかとつき合ってくれたんだか不思議だよ」
「やだー。そんなこと。佐々木さんがステキだからに決まってるでしょ。意地悪なんだからー」
ー 女、起き上がって男に覆い被さる。
ー また、別の日、オープンカフェの通りに面したテーブルをはさんで二人が座っている。よい天気である。初夏の風が街路樹の葉をかすかに揺らしている。
「そうだ、蘭ちゃん、勉強のために見てみたいって言ってた、燃焼室設計図の話ね、持ってきたよ」
「え、本当?嬉しい。私ね楽しみにしてたんだ。佐々木さんの仕事も見てみたかったし」
ー 男、鞄から薄いファイルを取り出して、女に渡す。女、ちらりと男の背後を確認してからファイルを受け取る。
「わあ、見ていい?」
「いいよ。ちらっとだぞ。一応、マル秘だからね」
「ほんとだ。秘って、スタンプが押してあるね」
ー ファイルの中の資料に目を通す女、一瞬、眉をひそめる
「どうした?」
「え?あ、何でもないし。凄い研究結果なんでしょ。凄いわ佐々木さん」
「へへ、そうか。俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
ー 男、店内に入り、トイレに向かう。待っている女、資料をテーブルにポイと投げだし、飲み物のコップをとる。トイレの手前に空くのを待っているらしい男が立っている。
「受け取ったか?」
「はい、今、見てます」
「ただの特許公報だってことを、あの女わかるかな?」
「いや、それほどは詳しくないようですし、マル秘だと思ってるようです」
「そうか」
ー テーブルの女の背後の椅子に男が座る。新聞を読んでいる風のまま、女に話かける。
「どうだ、資料は本物か?」
「はい、マル秘のスタンプがありますし、本物と思います。後ほど内容を分析して報告します」
「よし」
ー トイレに行っていた男が戻ってきた。女の背後に居た男はもう姿を消している
「しかし、いい天気だな」
「そうね、ちょっと見たけど、私の習っているのと大分違うのね」
「ああ、新型の燃焼室だからな」
「凄いわー。こんな風に設計するのね。私もいつかこういう設計してみたいな」
「蘭ちゃん優秀だから、そのうちできるようになるんじゃないのか」
「そうなったら嬉しー」
「はは、蘭ちゃん、カワイイー」
「やだー、佐々木さんたらー」
ー 女、ちょっと顔を赤らめる。手にもっていた資料を、男に返す
「佐々木さん、これありがとう」
「え、もういいのか、明日までに返してもらえばいいんだけど」
「ううん。ほんとに佐々木さんの仕事を見てみたかったのー。私が思ってた通りのエンジニアってわかったし」
「へへ、そんなに褒められても、恥ずかしいな。ところで、今晩は空いてる?」
「今日?ちょっとまってね、予定見るから…へへ、全然平気だよ」
「じゃ、今日はイタリアンの店に行ってみようか?」
「嬉しー」
ー 二人、テーブルの上でお互いの手を握ったり、いちゃいちゃしている。
■ ■ ■