途中実家に2泊したとはいえ、6日間、計3,204km(トリップメータによれば)のツアーはこれまでの最長距離である。思うところのある旅でもあった。また、北海道には友人も居るのであるが、バイク旅では時間を約束することもできないので、訪ねるのは敷居が高いな。
第一日目:東京ー函館, 736km(Googleによれば)
前日の天気予報は台風の襲来をしつこく告げていて、近頃のマスコミは、前代未聞の被害が出るようなことを大仰に伝えるので、割引して考えることにしているのだが、細かく地域毎の予報をみると、北日本の土曜日は曇りではあるが本格的な雨にはならないだろうとしている。ただしその次の日は雨であろうと。今月のこの後のスケジュールを考えると、快晴の日程が組めるのを待っていたら、何時になるか分りはしない。何時行くんですか、今でしょ、というわけで、土曜の朝5時に出発した。
長距離ツーリングなのでジェンマにしたので、結構な荷物は積めるのだが、バッグに入れたのは例の通り少ない。リストアップできる程だ。
で、青森までは順調に走ったのだが、考えてもいなかったことに、津軽フェリーが予約で一杯であった。キャンセル待ちリストに入った。フェリーは基本二十四時間運行なので、何時かは乗れるのだが、何時かは分らない。どちらにしても今日中に函館に入ることはできず、宿にも入れないことになったのだ。取りあえず、近くのコンビニにジェンマを走らせて、弁当と甘いものを購入した。戻って待合室で弁当を食べ終わったところで、キャンセル待ちにも乗船順が廻ってきた。なかなかのグッド・タイミングであった。実はコンビニを探すのに手間取って、戻るのがもう一足遅かったら、この便を逃すところであったのだ。
ところで、バイク旅は食事が偏ることになる。バイクは体の運動というより神経の運動なので、腹は減らないが喉が渇く、目が疲れ最後は気を失いそうになるので、軽い食事となるのだが、糖分ばかりだと気力が失われてくるのだ。で、水のボトル、サンドイッチ、菓子パン、一日一度は幕の内弁当、あたりのものを買うことになる。
さて、船中で三時間程の仮眠を取ったが十分ではない。ネットで函館港のそばに、二十四時間営業の健康センターを見つけて、転がり込んだ。だが、安く旅をしようという同輩は数多いと見えて、広い休憩室は仮眠をとる客で一杯であった。
第二日目:函館ー実家, 360km
今日も台風の影響で、天気は期待できない。ただし気温は低いのでバイク乗りとしては楽である。さっさと室蘭廻りで、実家に向かうこととした。途中の洞爺湖で、そういえば洞爺湖などという場所は、小学校の修学旅行以来であることを思い出し、湖を一周してみた。湖岸のところどころにキャンプ場があって、たしかにBBQはこういう肌寒い中に楽しむのが良いな、などと全く余計なお世話なことを考えながら一回りしてみた。
元の道に戻る途中に伊達方面の案内があったので、一周は途中で打ち切って、昔から住むによい場所と言われて居る、伊達を通ってみることにした。道の分岐で見た昭和新山はまだ赤い岩肌で、この観測でペーパーを書いたのが何人もいるんだろうなと考えたり。
伊達が良い街であるかどうかの判断は付かなかったが、ここのマックで朝食とした。さらに苫小牧に出て、そこからは室蘭本線沿いに岩見沢に向かう。早来だの、追分だの、由仁だの、栗山と栗丘と栗沢の道順だのを、古い記憶を思い出しながら走ったのだった。
途中の岩見沢のAEONモールで、晩御飯の総菜と手みやげを購入するために立ち寄った。巨大な施設で、確かに地方の分化中心となるに足るのであろうと思った。
第三日目:実家
ここでは少しプライベートなことを書こうと思う。隠す程のことでもないし、いずれは自分の身に起こる筈のことであるからだ。昨日、晩御飯のための総菜を買って、実家に戻ってみた。母親の好みかと思っていた白身の刺身も買ったのだが、そうではなかった。刺身は好きではないのだが、白身なら食べてもよいという好みであった。肉を食べないのは知っていたが、一体何が本当に好物なのかは未だに分らないし、死ぬ迄わからないだろう。母親の方ではなく、自分に自問しても確かにあれが好物である、というのを即答できないところをみると、親子だけあって同類なのであろうと、思うしかない。と言うより、これが好物と聞いたから買ってきてやったぞ喰え、という流れが気に入らないのであろう。それなら理解できる。
好物の話にも関連するのであるが、気付いたのは、独りで生きるという主旨が、母親の生きるための目的となっていたことで、生きるために生きるという同義反復に入り込んでしまったゆえに、今さら子供の家に身を寄せることはできない、という想いに当人があることだ。それも理解できるし、風呂が沸いたから早く風呂に入ったらどうか、という勧めも、これが繰り返されると迷惑に思うらしい。それも分る。生きる主体も自分であるし、独りで誰の助けも借りずに生きる、というのが目的化されているのである。しかし、その誇りは、なによりも尊重したいと思うのだ。おぼつかなくとも体が動く間、子の世話になるのは、長い間守ってきた自分の主旨を枉げることにもなり、他からそれを強制されるのは、屈辱とも感じることであろう。
ただし、記憶を保持する力は去年よりも失われてきていて、数年〜十年程に起きた、重要だけれど生活にはあまり必要のない記憶、誰かの親は亡くなったかどうかとか、孫が結婚したかどうかとか、子が今なにをしているか等は、自分の記憶が曖昧であることを自覚しているゆえに、何度も聞いて確かめようとする。その度に初めて聞いたような態度で、数十回も同じ答えを繰り返すと、記憶が一時的に固定されるようだが、回復することはないだろう。衰えは日常生活のところどころに表れていて、料理を焦がしてしまうとか、風呂の温度が上がりすぎるだとか、気付かないだけでその他にもあるかも知れない。歩行もごく近所の買い物よりも長くなると困難が増してくるようだ。
生きる上で求めるものが、よく独りで生きることであることは、同義反復ではある、しかし、すでに成立している同義反復に対しては、肯定も否定もできない。今後、どうなるかと想像すれば、母親が自らの主旨を変えることは、もはや自分の力では不可能であろう。最終的には、肉体の理由によって、独りで生きるという主旨が強制的に奪われてしまってから、子に世話にならざるを得ない事態を迎えるか、あるいは、いくつか自分でも想定しているらしい、施設に入るという選択肢しか残らないのだ。だが、少なくとも自分の意志を最後まで守り通したという自尊は、失われずに済むし、そうさせてあげたい。
釈尊は「犀の角のように只一人歩め」と述べたが、生を歩む中で、尖った状態で追求せよという事であれば、肉体が滅ぶまで、どういう形であれ、追求は可能であるし、それは他の助けがいらないということではない、ということを理解したことであるよ。
第四日目:実家ー枝幸, 409km
熱低となった台風も過ぎたようなので、今日は北を目指す。最初は函館本線に沿って走るつもりであったが、月形方面に迷いこんでしまった。それも一興であろうと。月形は訪ねたことがなかったからだ。名前のとおりに石狩川の残した、幾つもの半月湖の脇を通り過ぎて、やがて新十津川へ。滝川に出てから妹背牛だの秩父別だの、名前だけ記憶していた土地が次々に現れた。途中から、無料の高速道路を使って留萌市へ。遥か昔に暑寒別岳を登ったおりに通った街の筈だが、もちろん覚えはない。想像していたのと違って明るい町という印象を持った。朝のモスバーガーを食べたせいかも知れぬ。
ここから日本海に面した道をたどる。アップダウンのある草地と砂地の道で、羽幌からは島々が見える筈だったが、台風が過ぎたあとの濛気で確かめることはできなかった。やがて天塩町に着いて、そういえばこの辺りに幌延の地下処分試験場があるのを思い出して、調べるとひっそりとして存在していた。実験施設そのものは、大きな建物が何棟もある整備された場所である。日本原子力研究開発機構幌延深地層研究センターという名称で、PRセンターが付属している。寄ってみた。
ここは堆積岩の地層を対象に深地層処理に係る地質研究を行っているのだと。案内を乞うたら、現状を説明してくれた。基本的には独立法人なので5年ずつの予算設定で事業を行っていて、つまりは予算範囲で少しずつ掘っては、研究を進めるというスタイルであるのだという。面白かったのは町とのMOUが掲示してあって、締結日は書いてあるが、MOUの有効期間やその延長などは書いていない、という代物だった。基本的には、この試験竪坑をそのまま処理施設にはしないという町の主張を書き記したかった、という覚え書きである。ここで、「色々ご存知で関係者の方ですか?いや実はですね…」などという、嬉し恥ずかしの展開を期待したが、勿論、なかった。
さらに北上すると稚内へ到着した。稚内から宗谷岬へは意外に距離がある。岬に到着した頃は強い風に雨が混じってきて、記念写真を撮り、さらに雨脚が強くなってきて、雨具を着けて早々に出発した。岬をまわると、雨は止んだが相変わらず風が強くて、重心の低いジェンマでも走り難い状態が続く。浜頓別を過ぎたあたりから、今日の宿を探す算段を始める。最初は紋別あたりまで行こうかと思ったが、この風の具合では、快適かつ順調な走りはできないだろうということで、四時過ぎたあたり、枝幸町に着いて、ここで宿を取ることにした。調べると三つ程候補があって、一軒はきちんとしたホテルで、オホーツク膳というような夕食が用意されるらしいが、それとは別の、安いこと確実の商人宿を選んだ。ナビでも見つからない、大雑把な町名番地しかない場所なので、見つけるのに、少し時間がかかったが、予想通りの安宿であって、夕食は近所のスーパーで弁当を見繕った。スーパーへの道の前を、三人連れの外国人女性が歩いていて、中国人らしかったが、近くの水産加工工場で働いてでもいるのであろう。
日中、宗谷岬を廻って直ぐの小さな山道で、ずっと真っすぐな道を走り続けた反動か、ワインディングを飛ばしたら、横風もあってラインを外しそうになったことで、気落ちしていたので、近くの居酒屋にも出かけず、さっさと寝ることにしたのだった。
第五日目:枝幸ー青森, 592km
津軽海峡フェリーのキャンセル待ちに備えて、早めに出立することにした。五時である。空を見上げると雨こそ落ちていないものの、曇り空である。したがって暗いオホーツク海である。途中に雄武がある。枝幸よりも大きい町であるかも知れない。興部に至って、ここから内陸へと向かう。興部は一度来た筈である。おそらく汽車が走っている頃である。夏の汽車旅であったと思われるが、その行き帰りに記憶が残っていない。その頃は、何をしてよいか分らず、カメラを買って寂しい写真を撮り、自分で現像焼き付けして、気取ってみたことがあったことを思い出した。もちろんカメラ趣味は直ぐに止めてしまったのだが。
興部の奥にさらに西興部村があって、かなりの数の人が住み、町営墓地まであるのであるが、入植した人々はどんな気持ちであったのだろうか。もちろんここで生まれた者は、そんなことは何にも感じなかったことであろうことは、自分の経験からいっても容易に推測できる。下川町は想像以上に大きな町であり、その先が名寄である。名寄から士別へ。士別で本格的な雨になってしまった。雨具を着込んでさらに走る。ところで、いままで腹に入れたのは、宿を出る時に齧った、前日のスーパーで買ったクリームパン一つであったな。気分は山頭火である。
比布から旭川であるが、バイパスを通って市街は通らなかった。コーヒーを飲みたかったのであるが。ところで北海道にはセイコーマートという独自ブランドのコンビニがあって、岩見沢を過ぎたあたりで入ってみた。調理したての丼などの提供もあったが、普通の幕の内を買って昼飯とした。さて苫小牧あたりで時刻はまもなく三時、函館まで行くとすると、これでは時間切れになってしまうな。ここから高速に乗ることにした。沼ノ端ICである。最初は長万部あたりで一般道路に降り、海岸通りを函館方面からやってきて、これから北海道ツーリングをするであろう、バイカーとヤエーしつつ、海岸沿いの真っすぐな道を走ろうかとも思ったが、見積もるとそれでは函館に到着するのが、八時過ぎになってしまう。
結局最後まで高速を使うことになったのだが、フェリー乗り場に着いたのは七時で、とうに夕暮れは過ぎて薄暮の光が残る時間であった。が、18時10分発の青森行きに、すんなりと乗船することができたのだった。キャンセル待ちを覚悟して、弁当に菓子類もコンビニで仕入れてあったのが、後で船の上の夕食とデザートとなった。乗船前に青森の宿を探して、電話したところ、フェリー到着後の十二時を廻った後で到着してもよいとの返事で、無事予約することができたのは有り難かった。
第六日目:青森ー東京, 736km
北海道はずっと気温が22〜5℃程度で、メッシュのジャケットとインナーだけでは寒い程であった。今日は天気は良いとは言えないが暑いであろう。五時四十五分に宿を出発した。ひたすら高速道路を走るだけである。
ところで、この旅では、少し前に嵌まっていたBABYMETALを、ヘルメットに仕込んだスピーカーを通じて、ずっと聞いていた。ジェットタイプのヘルメットでは、エンジン音と風切り音で、音質は問題外であったのだが、繰り返し繰り返し聞いていた。何時こんなに嵌まったのかを遡ってみるのに、BABYMETALについてツイートしたのを見てみると、チームがヨーロッパツアーを開始する寸前だな。どのくらい嵌まったかと言うと、BABYMETALのアルバムを聞くためには、メタルだから今迄のスピーカーでは、どうにもならないとして、BOSE Sound linkを買ったし、実は、ファンクラブにも入会申し込み済みなのだ、じつは。
音楽を聴いて「ぐっときてしまう」という経験は何回かあるのだが、一つが本條秀太郎の唄で、一つがリリ・レイで、BABYMETALがその次にやってきたのだ。初めの二つは、どちらも師事した、あるいはしているのだから、なかなか幸運であることよ。BABYMETALの方は今現在、驚くべき展開をしているのだが、その世界制覇を見守る、という幸せを感じているところだ。
というわけで、東北道を蜿々と南下したのだが、やはりと言うべきか、お盆の混雑にひっかかってしまった。渋滞は宇都宮の手前やら川口の手前やらでたっぷりあって、我が家に到着したのは十時二十五分であったな。
この距離のツーリングとなると、ジェンマでは色々と無理が生じるようだ。まず高速道路では、追い越し車線を走ることもできるが、7000rpmを超えると燃料消費が許容できない程の量になってしまう。給油距離の余裕などを考え合わせると、90〜100km/h程度が上限ということになるように思われる。この程度の速度であれば満タンで300km程度は走れるからだ。
さらに駆動系にも問題が出た。以前にも長距離で経験したクラッチの不具合だ。スムーズに発進することができなくなってしまう。ただ、一定速度の状態が長く続いたためのどこかの箇所の固着も考えられた。走っている最中の急なアクセル開け閉め操作や、ブレーキをかけながらの発進などで、不具合が緩和したので、やはりどこかの固着だったのかも知れない。
換えたばかりのオイルについても、東京に入る直前で、交換ランプが点灯した。