自己表現グラフ
ずっと考えているが、なかなか良い手掛かりが得られない、Mathehmaticaをどう広めるべきか、という問題だ。
ある日ふと気づいて、プログラミング、自己表現、というキーワードで、同じような事を考えている人がいるかどうか、ググってみた。結果、いくつかひっかかったのだが、不十分と言わざるを得ない。
で、今度は、そもそも自己表現とは何かの観点から、関係グラフを描いてみた。分析してみると、人間の自己表現は、ギリシャで記述されてから、その記述が生かされたままで、新しい表現が加わっている状況であることが分かった。人間の自己表現というのは、広まるのに時間が掛かると見えて、適切な言葉すらないように見えるし、やっぱり、コンピュータは、自己表現に大きな影響を与えていて、しかも、影響が浸透していない分野もあるだろう、ことが見えてきた。
特に、シンギュラリティの出現以前に、コンピュータとプログラミングの発展に伴う、義体化が出現する方が早いのかも知れないと、思うようになった。義体とは、例の攻殻機動隊に表されている、義歯、義手、義足の如き技術が極限にまで進んで、身体全てが機械化された状態を言うのである。この観点に立つと、義体が、自己表現のループを形成することが分かる。つまり、義体化されれば、全ての身体的制限を超えた、自己表現が実現されるのである。どういう事かと言えば、義体はある意味身体であるから、別の身体を義体として持った人間は、別の自己表現の開始点に、図で言えば、一番のトップだな、立つことが可能となるのだ。
いきなり義体の出現があることはないが、上記の考え方に拠れば、「義自己表現」とでも言うべき状態を実現することができるようになるだろう。つまり、技術的な問題が、自己表現の制限になっているのであれば、コンピュータとプログラミングはそれを強力にサポートできるようになる、という、見通しが得られるだろう。図で言えば、一番右上、身体にハンディキャップがあっても、e-gameという競技に参加できる、という事実の出現があるのだ。
ここまで、来れば、自己表現の気持ちがある人であれば、コンピュータとプログラミングを受け入れるようになるのは、容易に想像できよう。つまり、Mathematicaを広める道筋はあり、残る問題は、その道筋を通り易いように広げることだ、という結論が得られるのである。
(2021/1/15)